第33話:『一月十四日の貸借対照表ー01/14 07:00 執行開始』
第1部:譲渡(ペニー・ストックの罠)
一月十四日 午前七時
ド・ラ・ノワール事務所の最上階。遮光カーテンの隙間から差し込む一筋の冬の光が、クリスタルグラスの縁を鋭く射抜いている。
「……主さま。今朝のバイタルは極めて安定しています。
昨夜の『調律』による魔力補正が、期待値通りに機能したようですね」
今日のヴァルプスは起床から管理者モードである。
ヴァルプスはダークスーツを身に着け、音もなくレオンの背後に立ち、完璧な角度でハーブティーを置いた。
レオンの鋭敏な嗅覚を刺激しないよう、雑味を一切排した朝露の抽出液。その芳香とともに、銀のトレイに乗せられた漆黒のバインダーが差し出される。
「これは例の計画の最終草案です。当日で恐縮ですが、修正案として提示させていただきます。
……どうぞ、朝食と共に、ボクの……いえ、『管理計画』を検収してください」
レオンは、にっこりと微笑んで白銀の果実スープを一口啜り、事務的な手際でバインダーを開いた。
褐色の長い指先が、冷徹な美しさで綴られた地獄の契約条項をなぞっていく。
「ああ、待っていたよヴァルプス。
……ほう、『非流動性特定資産として永続的に保管(第3条)』か。
……素晴らしい。なんて綺麗なロジックだ。
君は本当に、私を……私以上に理解してくれているんだね」
レオンは、自分が「檻」の設計図を読んでいるとも知らず、「最高の福利厚生だね」とでも言いたげな、晴れやかな青い瞳でヴァルプスを見上げた。
ヴァルプスは、そのレオンの無垢な信頼に、心臓を直接掴み取られるような歓喜と痛みを覚える。銀髪の合間から覗く赤い瞳が、捕食者の熱を帯びて細められた。
「……当然です。ボクは、あなたという資産を守るための管理者。
……契約上の義務ですよ」
「よし。A.I.D.A、この草案を現行のポートフォリオと照合してくれ。
私の目的合理性に反する条項はあるか?」
レオンが空間に端末を展開すると、間を置かず無機質な音声が響く。
『……照合完了。
第3条「自己分解リスクの阻止義務」は、資産価値の維持において極めて妥当です。譲渡人の評価額に対し、受託者の負担する管理コストが異常に高い、譲渡人に圧倒的有利な条件です。
……推奨:即時締結』
「ヴァルプス、A.I.D.Aもお墨付きだ。
君は本当に、私という『負債』に献身的に尽くしてくれるんだね」
レオンは満足げに立ち上がり、ミッドナイトネイビーのジャケットを羽織った。
「さて、昼にマルヴェイとの戦略会議がある。彼にもこれを見せて、最終承認(Approved)をもらっておこう。情報の非対称性を残すと、後でデバッグ(もめ事)の元になるからね」
「えっ」
ヴァルプスの喉から、掠れた声が漏れた。今日、このまま二人きりで「調印」へ至るはずだったカウントダウンが、一気に不穏なノイズに侵食されていく。
「……マルヴェイ、さんに……ですか?」
「ああ。彼は私の『相談役』だから。専門家の意見は重要だよ。
……午後の一四時にまたここで会おう、ヴァルプス。
その時、正式にサインするよ」
レオンは地獄への特急券を鞄に詰めると、軽い足取りで部屋を出た。
残されたヴァルプスは、トレイを指が白くなるほど握りしめたまま、凍りついた微笑みを浮かべて立ち尽くしている。
(……マルヴェイ。あんな不純なノイズに、ボクが組み上げた『安らぎの定義』を……汚させるというのですか……!)




