第32話:『管理者の不在、共犯者の不在ー01/13 20:00 執行開始』
第1部:黄昏に眠るCEO
一月十三日 午後二十時
目を覚ますと、ラウンジの静けさが一層強調されていた。
眠気がまだ残る中で、レオンはぼんやりと目元を指先で擦る。
時計の針の音さえ、普段のように軽やかではなく、まるで世界全体が息をひそめているかのようだ。
仰向けに寝転んだまま、天井の模様に視線を落とし、状況を把握する時間が必要だった。
仮眠のつもりだったはずなのに、ラウンジの空気はどこか異常に冷たく感じ、進んだ時間を信じられなかった。
いつの間にか、日が落ち、外の風景は紺色に染まっている。大きな窓から見える都市の灯りは、遠くで輝いているが、今の自分にはまるで別の世界のもののようだ。
起き上がり、ふと視線を投げた先の黒皮のオーガナイザー。
確か、そこにヴァルプスがレオンの魔導端末を置いておいたはずだが…それがない。
素早く立ち上がり、オーガナイザーの中をかき分ける。
普段なら目を向けることもない小さなスペースに、心の中で急かされるように手を伸ばす。冷静さを保とうとするが、その手が震えているのを感じた。何かが足りない—それが何か、すぐにはわからない。だが、心の中で焦燥感が滲み出してくる。
あたりを見回して魔導端末が寝台の縁に挟まっているのを確認し、レオンは検索をかけた。検索結果を確認しながらレオンは乱れたシャツの襟を直し、スーツのジャケットを探して部屋を歩き回る。
執務室の机の上に楚々として飾られている翡翠色の琥珀糖を一瞥すると、執務室の本棚に近寄って一つの魔導書の背表紙をなぞる。数秒後に展開された防御魔法を組み解いて出てきた小さな金庫から無造作にひとつの記憶結晶を取り出すと、その記憶結晶を強く握りしめた。
時計の針は二十時を回ろうとしている。主としての仮面を整え、レオンは重い足取りで廊下に出た。
向かう先は地下。
そこには、自分を『至高の所有物』として待つ、二人の怪物が潜んでいる。
第2部:管理権限の衝突
鉄扉に掲げられた「地下第一メンテナンス・ラボ」のプレートが、不規則な電圧で瞬いている。
重厚な防音扉を開くと、地上とは切り離された、耳を圧するような無音と熱気が押し寄せてきた。青白い光が這う薄暗い室内で、硬質な打鍵音だけが、まるで冷たい雨音のように一定の電文を刻み続けている。
ラボの天井にかかった鈴飾りを煩わしそうな目で避けながらヴァルプスは首を軽くひねった。
ヴァルプスの頭部から伸びた角が赤い垂れ幕にかかる。ちりちりとした阻電魔法に目を細め、ヴァルプスは張りつめた肩を動かして、銀髪を揺らしスーツにまとわりつく静電気を払った。
「……相変わらず、主さまの審美眼を疑いたくなるような空気ですね。
マルヴェイさん、少し同期よろしいですか?」
ヴァルプスの静かな声音に、打鍵音が止まる。
一拍おいて、モニターの光に背を向けたまま、マルヴェイの声が低く響いた。
「……何の用だ。君の『管理区域』は寝室だろ。ここは私の領域だ。一歩も入るな」
「入るつもりはありませんよ、汚れそうですから。
ただ、主さまが先ほどここから戻られた際、少々……いえ、かなり『バグ』が出ていらっしゃったので。警告に来ただけです」
「レオンは君の前じゃ見せない顔を、私の前で見せる。
……それが気に入らなくて、わざわざお出ましかな?」
マルヴェイは椅子を回転させることすらしない。モニターの青白い光が、勝ち誇った歪な口角だけを暗闇に浮かび上がらせていた。
「勘違いしないでください。ボクが言いたいのは、『主さまの波形をこれ以上乱すな』ということだけです」
ヴァルプスは鉄扉の側で微動だにしない。昆虫の挙動を予測するかのような無機質な視線が、マルヴェイの背中に突き刺さる。
「主さまがあなたの不純なノイズを浴びて戻られると、その後のボクによる『再構築』工程が増える。
ボクの管理を、あなたの稚拙な遊びの尻拭いで削らないでいただきたい」
「……尻拭い? お前、レオンが君という『檻』から逃げるために、私の『毒』を欲しがっている自覚がないのか」
マルヴェイの手が止まり、打鍵音が消えた。過熱したサーバーの排熱音だけが、耳障りに地下室を満たしていく。
「ええ、承知していますよ。主さまがあなたに漏らしている感情など、すべて。
……滑稽ですね。あなたが必死に奪ったつもりの欠片さえ、既にボクの検収(管理)済みだというのに」
ヴァルプスが一歩、影を踏み越えた。
天井に届かんばかりの角が不気味なシルエットを描き、その指先が空間のノイズを愛撫するように払う。
「今後、彼に『変な夢』を見せないでください。
現実(ボクの腕の中)との落差で彼が物理的に損壊れたら……今度こそ、あなたという不具合をデリートしますよ」
マルヴェイが淡桃色の前髪をかきあげ、指先に魔力を乗せる。一度ふっとばしてやろうかとマルヴェイが考えた矢先ーヴァルプスの魔導端末から通知音が鳴った。
ヴァルプスはマルヴェイの指先を警戒しながら、手元に視線を落す。
そこにはレオンがヴァルプスの半径50メートル以内に来ていることを示すバイタルデータが記録されていた。
ラボから地上へ上がる魔導昇降機までは一本の廊下しかない。
ヴァルプスの顔から余裕が消える。
マルヴェイに会っていたということをレオンに知られたくないヴァルプスは、彼と鉢合わせすることを恐れた。
今ここで鉢合わせれば、自分がマルヴェイという『バグ』と接触していた事実が、主さまの純粋なログに残ってしまう。
潔癖すぎる矜持が、彼を惨めに隠蔽へと追い込んだ。
咄嗟に背後に壁に背を押し当て、モニターの影に身を落とし込む。
マルヴェイは指先に集めた魔力を霧散させ、代わりに喉の奥で低く笑った。モニターの光に照らされたその翡翠の瞳が、影の中で息を潜める「正妻」を、これ以上ないほど嘲弄するように見上げている。
「……滑稽だね、ヴァルプス。全てを検収(管理)しているんじゃなかったのか? 飼い主の足音一つに怯えるなんて」
薄暗い室内を割り開くように、再び鉄の扉が開かれるーーーー
第3部:秘密という名の蜜月
重厚な鉄扉が、地下の静寂を切り裂いて開かれる。
流れ込んできたのは、上階の清潔なラウンジの残香と、レオンという存在が放つ、あまりに清廉で残酷な体温だった。
乱れた襟元と皺が僅かに寄るスーツをまとわせたまま、レオンはマルヴェイの姿を探していた。
「……マルヴェイ、起きてるかい」
レオンの声は、ヴァルプスが知る「管理される側の従順な音」ではなかった。どこか熱を帯び、縋るような響き。
息を潜めるヴァルプスにとって、それは胸が痛む声音だった。
レオンの背中を見ながら、ヴァルプスは室内に広がる影にゆっくりと沈み込みレオンから距離を取る。天井の隅の影で、赤い目が細く瞬いた。
「……レオン。また来たんだね。どうしたの」
マルヴェイがわざとらしく、甘ったるい声を出す。
彼は椅子をゆっくりと回転させ、天井で屈辱に震える影を一瞥した。翡翠の瞳が、暗闇の中で愉悦にぎらついている。
レオンは胸元から黒い記憶結晶を取り出すと、そっと机の上に置く。
「マルヴェイ。先程の件だが……私はあまり人の心がわからなくて。
ただ、君との間に『情報の非対称性』が存在しているのだと考えた。それを解消するために、私のリソースを君に開示しに来たんだ」
レオンが指先で印を結ぶと、レオンの黒角からわずかに青い火花が散る。ラボの空間を切り裂くように青い魔法結界が展開された。それは物理的な防壁である以上に、外の世界から音を遮断するという、レオンの明確な拒絶の意志だった。
レオンの青い瞳が所在なげにマルヴェイを見下ろし、記憶結晶に移動する。
マルヴェイは一度記憶結晶を起動し、自分の額に当てる。
その様子を、レオンは採点の結果を待つような僅かな緊張を載せて唇を引き結んだ。
マルヴェイが目を開けるその時まで、一分もかからなかったがレオンにはひどく長い時間に感じられた。
内部構造を反芻したあと、マルヴェイは、笑い出したくなるような衝動を、黒い爪を椅子に深く食い込ませることで辛うじて繋ぎ止めた。 翡翠の瞳が、歓喜で細く、獣のように歪む。
「……これだ。これだよ、レオン。
君はやっぱり、とんでもない馬鹿なんだね。
「非対称性の解消」だって?
……違うだろ。君は今、私にだけ、君の『命の終止符』を公開したんだ」
レオンは努めて冷静な声音で、マルヴェイに要望を伝える。
「君の助言が必要だ」
レオンは自分の計画の核心をマルヴェイにさらけ出して『君の助言が必要だ』と言っている。
レオンの言葉を咀嚼し、その真意を悟った瞬間、マルヴェイの背筋に電流が走る。
マルヴェイは、自分でも制御できないほど震える指先で記憶結晶を机の上に置いた。
いまレオンから提示された情報。それは過去の記憶などではない。レオンというシステムの、最終シャットダウンまでの工程表だった。
「よりによって私を選んだね」
「……協力してほしい」
両手を所在なげに組みながら、レオンはマルヴェイを見下ろしている。
「『協力してほしい』、か。レオン、君は自分が何を言っているのか分かっているのかい?」
マルヴェイはわざとらしく溜息をつき、椅子から立ち上がった。レオンとの距離を一歩、詰め寄る。
「……対価がいるかな?」
「そうだね。でも……いいよ、レオン。対価についてはまた今度相談しよう。
だって私は特別な共犯者だから」
天井の闇で、ヴァルプスの魔力が逃げ場のない熱を帯びてゆらりと波打った。
レオンの展開した遮断結界のせいで、彼の悲鳴に近い魔圧が逃げ場を失って室内に充満し、マルヴェイの五感を心地よく愛撫する。
マルヴェイにははっきりと届く、敗北者の悲鳴。
それを最高のBGMとして愉しみながら、マルヴェイはレオンの商談が成立したあとの、憑き物が落ちたような安心した顔に、この上なく慈愛に満ちた微笑みを返した。
「君の『情報の非対称性』、私がすべて埋めてあげよう。
……誰にも、邪魔させないよ」
ヴァルプスがレオンに与えた「清潔な管理」を、マルヴェイの「不純な共犯」が塗り替えていく。
地下のメンテナンス・ラボ。
二十時の静寂の中で、レオンは自ら、最も深く鋭い『毒』をその身に迎え入れた。
第4部:読み取り専用の聖域
レオンの足音が遠ざかり、重厚な鉄扉が完全に閉まる。
魔法結界が解けた瞬間にラボへ流れ込んできたのは、静寂ではなく、天井の闇に凝縮されていたヴァルプスの「拒絶」の魔圧だった。
影が。
ドロリと実体を持って床に滴り落ち、そこから屈辱で顔を白く染めたヴァルプスが音もなく姿を現した。
完璧だったはずの銀髪は乱れ、眼差しには鋭利な怒りが宿っている。
「……マルヴェイ。
今の結界の中で、主さまと何を……どんな醜いログを共有したのですか。
答えなさい、今すぐに」
地を這うような、だが一切の音量を抑えた声音。それはかえって、彼の「管理官」としての理性が限界に達していることを物語っていた。
だが、マルヴェイは眉ひとつ動かさない。椅子に深くふんぞり返り、レオンが置いた記憶結晶を、まるで見せつけるように細い指先で弄んだ。
「……あはは! 知りたい? でも残念。これは『レオンと私』だけの専用プロトコルなんだ。
君みたいな『外付けのハードディスク』には、読み取り権限(アクセス権)すら付与されてないんだよ」
「……これ以上、不具合を重ねるつもりですか。
主さまの所有物を勝手に汚す権利など、あなたには一ビットも存在しない。その指を離し、その結晶を速やかに差し出しなさい」
ヴァルプスが一歩踏み出すごとに、ラボの空気が重質化し、物理的な重圧となってマルヴェイの肩を圧迫する。
しかしマルヴェイは、翡翠の瞳を細めて嘲笑を深めるだけで、その指先が結晶を離すことはなかった。
「やってみなよ。でも、今私をデリートしたら、レオンが私にだけ預けた『たった一つの願い』も一緒に消えるよ?
君、レオンに一生恨まれたまま、空っぽの抜け殻を『介護』して生きていくつもり? ……あ、それも君らしいか。動かなくなった人形を磨いて愛でるのが、君の最高のメンテナンスだもんな」
「…………ッ!!」
ヴァルプスの指先が、怒りで僅かに震える。
普段なら即座に「害獣」として処理するところだが、マルヴェイの指摘した『レオンの願い』という人質が、彼の論理回路をがんじがらめに縛り付けていた。
「……いいでしょう。あなたがどれだけその『毒』を抱え込もうと、主さまが最後に眠るのは、ボクが整えた清潔な寝所の中です。
あなたのその醜い優越感ごと、主さまに上書き(スクラップ)される日が楽しみですね」
ヴァルプスはそれ以上ラボの備品に触れることなく、ただ軽蔑を込めて背を向けた。主さまが待つ上階へ、その汚れなき背中を追うために。
第5部:最適な保存環境の検討
上階に戻ったレオンは、自室の鏡の前でスーツを着直していた。
地下で有意義な商談を終え、喫緊の課題だったデバッグに目処がついたという達成感から、その足取りは羽よりも軽い。
「とりあえず、マルヴェイに相談できるようになって良かった。
やはり相談役はもっと増やさないといけないかな……」
レオンはA.I.D.Aに頼り切りだった自分を恥じながら、未来の選択肢が増えた予感にそっと微笑んだ。
そこへ、音もなく扉が開く。
現れたのは、先ほどまで地下で冷ややかな殺意を撒いていたとは思えないほど、完璧に「管理官」の仮面を貼り付けたヴァルプスだった。
「主さま、おかえりなさいませ。
少し夜風に当てられましたか?
随分と心拍数が……『高揚』されているようですが」
ヴァルプスは影のようにレオンの背後に滑り込み、冷たい指先でレオンの肩に残った「地下の澱み」を払うように撫でた。その赤い瞳の奥には、まだ処理しきれていないドロドロとした暗い熱が燻っている。
だが、レオンはそんなヴァルプスの静かな発火に気づく様子もなく、むしろ待っていたとばかりに表情を輝かせて振り返った。
「ああ、ヴァルプス! ちょうどいいところに。ねえ、これを見てくれ」
レオンは手元の魔導端末を、無防備にヴァルプスの目の前へ差し出した。
画面には――世界を揺るがす陰謀でも禁忌の魔術でもなく、「琥珀糖の正しい保存方法」という、あまりにも平和な検索結果が並んでいる。
「さっき調べたんだよ。琥珀糖って、直射日光に当てちゃダメなんだってね。翡翠の色が褪せてしまうらしい。……知っていたかい?
執務室の窓際は少し日当たりが良すぎるから、明日からは場所を変えないといけないな」
そう言って、レオンはヴァルプスの銀髪を、慈しむようにふわりと撫でた。
「せっかくマルヴェイからもらったお菓子だからね。大切にしないと」
ヴァルプスの思考が、物理的に停止した。
つい数分前まで、レオンと秘密を共有しようとした男を呪い、失脚プロトコルを練っていたというのに。
レオンが今、脳内のリソースを全割きして気にしているのが「宿敵からもらったお菓子の退色防止」だなんて。
「……あぁ、レオン。あなたは、本当に……」
ヴァルプスは、レオンの無垢な青い瞳を見つめ、あきらめたように深すぎる吐息をついた。
この人は、自分がどれほど深い愛憎の渦に飲まれているかも知らず、ただヴァルプスに豆知識を提供している。
「……承知いたしました。
明日の朝、ボクが最も安全で、最も美しい場所に移動させておきますね。
……光の届かない、ボクの目が一番届く、ボクだけの場所に」
「うん、君に任せれば安心だ。さあ、今日はもう帰ろうか。
今夜は私がごはんを作ろうか? それとも外食にする?」
レオンは満足げに頷き、鼻歌まじりに鞄を掴む。
その後ろ姿を、ヴァルプスは「いつかこの砂の一粒まで瓶に詰めて、ボクだけのコレクションにしてやる」という狂気的な決意を、今は聖母のような微笑みの裏に隠して見送った。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




