『不変の存在証明(システム・ハルト)』⑤
第5部:視線の行動原理
外の猛吹雪に掻き消されそうなほど微かに、しかし確実に、ホテルの尖塔から十二時を告げる鐘の音が滑り込んできた。
ゴーン、と重厚な残響が図書館の静寂を震わせる。その低音の響きに誘われるようにして、レオンはゆっくりとまぶたを持ち上げた。
レオンが微睡みに落ちてから、ちょうど三十分。ヴァルプスは対面の革椅子に深く腰をかけ、片手で土産物屋のカタログをめくりながら、レオンの規則正しい呼吸の音だけを数え続けていた。視線は書物の活字を追っているようでいて、その耳は上空のハヤテからの定期通信と、レオンの心拍数の微細な変化を完璧に捉えている。
レオンは焦点の定まらない視線を泳がせ、視界の端にヴァルプスの姿を見つけると、自らの覚醒を促すように何度か瞬きを繰り返した。
「お目覚めですか、レオン。ちょうど正午ですよ」
「……ああ。まだ、図書館か。少し、眠ってしまっていたようだな」
レオンは思い出したように膝の上の本に視線を落とした。本を掴み直し、近場のテーブルに置く。
まだ熟した葡萄のような熱の残る褐色の頬に手のひらを当て、小さく眉をひそめて前髪を整える。それから、気まずそうにヴァルプスを見た。
ほぼ毎朝、寝起きの顔を見せているのに、こういうときだけ体裁を取り繕おうとするレオンが、ヴァルプスにはどこか微笑ましく思えた。
ヴァルプスは手際よく陶器のポットから白磁のカップへと湯を注ぎ、あらかじめ適温に整えられたそれを差し出す。レオンは重い腕をのろのろと伸ばして受け取り、渇いた喉を潤すようにゆっくりと飲み込んだ。
「たいして飲んでいないはずだが……酩酊反応が出たな」
「珍しいこともあるものです。よほどお気に召したのですか?」
「後味に桃の香りが散っていて……それが、気になって飲んでしまった」
レオンは額へ手を当て、自分の調子を確かめるように目を閉じた。
「頭痛、吐き気、眩暈はございますか」
「ない。ただ、少し眠い」
「室内清掃は完了しております。お部屋へ戻られ、休まれながら昼食を取られてはいかがでしょうか」
「……そうしよう」
レオンが白磁のカップを木製のテーブルに戻すと、ことりと硬い音が静寂に響いた。それを合図にレオンが歩き出す。
だが、一歩を踏み出した瞬間、その体がわずかに左へと傾いた。重心の狂いを一瞬で察知したヴァルプスの手が、触れるか触れないかの距離感で、さりげなくその背を支えるように位置につく。
レオンは驚いたように肩を跳ねさせ、やがて額を押さえながらも、意地を張るように背筋を伸ばした。まるで最初からそういう軌道で歩く予定だったとでも言いたげな立ち姿だ。
気まずそうにちらりと後ろを振り向いてから、何事もなかったかのようにゆっくりと歩き出す。
その背中を見送りながら、ヴァルプスは上空のハヤテにハンドサインを送り、自身もその後に続いた。
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自室に戻るまでの道中、ヴァルプスの静かな問いかけに対するレオンの返事は、酷く曖昧な生返事ばかりだった。
彼が毛足の長い絨毯の厚みに足元を取られそうになる度、ヴァルプスは長い腕を音もなく滑り込ませ、自らの身体の厚みでその傾きを静かに受け止めた。
ロビーの喧騒を迂回し、やがて二人は静かな客室に戻る。
レオンが簡易キッチンの水場で手を洗ったあと、ふらつく体でソファに深く腰掛けて目を閉じると、その微かな呟きから辛うじて食欲の有無を汲み取り、ヴァルプスはルームサービスで簡単な軽食を用意した。
最初に部屋へと運ばれてきたのは、乾燥イチジクを赤ワインで深く煮含めたコンポートのカナッペと、透きとおるコンソメスープだ。黒い皿の上で、赤く染まった果実と薄く削られた地元の羊乳チーズの白だけが、雪の結晶のように静かに冬の匂いを放っている。
次いでヴァルプスが手際よくテーブルへと運んだのは、彼が注文した燻製肉のタルトと、湯気を立てる温野菜だった。黄金色に焼けたタルト生地からはバターと卵の香りが立ち上り、添えられた人参や蕪には溶かしバターが薄くまとっている。それらに合わせるように、テーブルの端に炭酸水の瓶とグラス、温めたハーブティーの入った茶器が置かれる。
すべての料理の造形を確認したあと、ヴァルプスはレオンの対面に置かれたソファへと腰を据える。
「レオン」
「ん」
レオンは片目を薄く開け、テーブルに並んだ皿を一瞥した。
はじめは億劫そうにしていたが、彼はヴァルプスの視線を意識したのか、ゆっくりと上半身を起こす。
「たべる。赤いから」
そんなことを言いながら、首元のサファイアブルーのストールに指をかけた。
ヴァルプスもその動作に合わせるように、自らの黒のストールを外す。布を身体から取り外すと隠蔽魔法がゆるやかに解かれ、それぞれの角が顕になった。
レオンは小さく息を吐いて首元に手を当て、それからようやく料理に手をつけた。
カナッペから上のコンポートだけをフォークで器用に突き、ぽつぽつと口へ運ぶ。速度は緩やかだが、拒むことなく確実に胃に収めていく様子を、ヴァルプスは静かに見届け、己の料理へと手を伸ばした。
やがてレオンはハーブティーのカップを両手で包み込むようにして持ち上げた。琥珀色の液体を口に含みながら、湯気越しにただじっとヴァルプスを見つめた。
酒のせいで少しとろんと潤んだその視線は、隠そうともせず真っ直ぐにヴァルプスの角へと注がれている。
見つめられている本人は、いつも通りの淡々とした動作で燻製肉のタルトにフォークを入れながらも、その長い指先が微かに躊躇うように位置を変える。
(また、見ている)
ヴァルプスは切り分けたタルトを口に運ぶ寸前、小さく目を伏せ、声音を低く落とした。
「……何か、私の角に付いておりますか」
「いいや」
レオンはカップの縁に唇を寄せたまま、微かに目を細めて、どこか楽しそうに生返事を返す。ヴァルプスが静かに料理をたいらげていくその一連の動きを、レオンはただ、絵画でも眺めるようにのんびりと見守り続けていた。
(視線が、逸れません)
ヴァルプスは鉄面皮を固定したまま、レオンの視線に耐える。
肉の香りも、香辛料も、舌は確かに拾っていた。
だがその情報は、思考のどこにも保存されなかった。
ヴァルプスがフォークを動かすたび、陶器が小さく鳴る。レオンはその微かな音すら、重たげな瞼の奥から追っていた。
ハーブティーの湯気が二人の間でゆるやかに揺れ、視界をわずかに霞ませる。それでも、青い瞳はまっすぐに、ヴァルプスの額から伸びる漆黒の角の、その鋭い先端から根元までを、何度も見比べるように眺めていた。
(行動原理を、確認するしかない)
ヴァルプスの喉が微かに鳴り、限界を示すように肩が強張る。
「レオン」
ヴァルプスはフォークから、指を離した。
カチャ、と先ほどよりも明確な音がテーブルに響き、レオンの睫毛が僅かに跳ねる。
「ん?」
「以前から、気になっていたのですが」
「なんだ」
ヴァルプスは、静かに問いかけた。
「……そんなに、私の角がお好きなのですか」
低く、どこか諦めを孕んだ声音が、二人の間を隔てる湯気へと混ざり、静かな室内に溶けていった。




