『不変の存在証明(システム・ハルト)』⑥
第6部:時間の刻印
「……好きだが?」
部屋の空気が、数秒ほど凍りついた。
レオンはカップの縁に口元を隠したまま、じっとヴァルプスを見つめ返し、やがて諦めたように小さく首を傾げた。
ヴァルプスは、一瞬息を止めると、探るようにレオンを見据えた。レオンはそんな視線を受け流すように、カップを口元からわずかに離す。
「説明をしてもいいのか?」
(説明を、したいのですか)
ヴァルプスは、炭酸水の入ったグラスを傾ける。
ほんのすこしだけ、嫌な予感がした。
無色透明の液体は、ヴァルプスの舌に残ったすべての味を浚い、これから起こることを警告している気がする。
ヴァルプスは、意を決して答えた。
「――ええ」
「所要時間は、どれくらい確保されている」
(どれだけ語るつもりですか)
「……少なくとも、私が食事している間は」
「わかった。では、食事の進捗に合わせて適宜要約する」
レオンは、手元のハーブティーのカップをそっとテーブルに置いた。
「では、説明する」
レオンはソファに深く背中を預けると、両手を太ももの上に置いた。この姿勢を見て、ヴァルプスは今度こそ嫌な予感というものを確信する。
(CEOモードですね)
ヴァルプスは、鉄面皮の下でそっと遠い目をした。食事はしているように見せなければいけないため、再びフォークを握る。
重たげな音を立てそうなほど潤んだ眼差しのまま、しかし口調だけはスマートに、レオンの第一声が放たれる。
「まず、形がいい」
レオンは、目を閉じる。
「先端へ向かう曲率も綺麗だ」
ヴァルプスは、その言葉を聞きながら燻製肉のタルトを一口大に切り分ける。
「左右差もほとんどない。根元から先端まで、一本の美しい流れになっている」
(造形評価……)
ヴァルプスは鉄面皮の裏側で、まずひとつの評価結果を得る。
レオンは薄く目を開け、少し考えながら言葉を区切った。
「色も好きだ。黒はいい。それに、その光沢。根本から先まで、闇を裂くように一条の翡翠が宿っている……磨いてみたいとも思う」
(磨く……)
再び、切り分けたタルトを口に運ぶ直前で動きを止め、ヴァルプスはレオンに問いかける。
「磨きたい、のですか」
「許可があるなら」
レオンは、あっさりと口にする。
(……触覚評価へ移行しましたか)
ヴァルプスは喉が渇いた気がした。グラスを掴み、炭酸水を飲む。喉を弾く微細な刺激と、この冷たさだけに意識を集中する。グラスは空になった。
「でも、一番好きなのは、そこじゃない」
レオンはそこで黙り込む。組んだ両手に、静かに力がこもる。
「例えば。数学。一に一を足せば、必ず二になる。……数式は、裏切らない」
レオンの声のトーンがそれまでの理路整然とした語り口から、自分の奥底をそっと曝け出すような静けさへと変わる。
「石もいい。何百年経っても石は石だ。建物も、樹も。……長く残るものは好きだ」
そう言いながら、レオンはどこかおぼつかない足取りで立ち上がる。
ゆっくりと簡易キッチンまで歩いたかと思えば、そこにあったパスタ瓶――まるごと一本の赤人参が収められたそれを、大事そうに胸元に抱えて戻ってきた。
ソファに座り直し、昨日よりも萎びた緑の葉を硝子越しに覗き込みながら、レオンは口を開いた。
「……だが、人は違うな。人は変わる。老いて死ぬ。とくに短命種は見ていて怖い」
いちどは綺麗だと告げた緑が失われていく――その研究者が標本の変化を惜しむように、瓶に額を擦り付け眼を細め、レオンは続ける。
「それから、写真は苦手だ。写っている人は、もうそこにいないから」
テーブルの端にコト、とパスタ瓶を置いた後、レオンはソファにしなだれるように背中を預けた。
「……だから、君の角を見ると安心する」
ヴァルプスは息を止める。
「いつ見ても、そこにある」
レオンは、淡く微笑んだ。
ヴァルプスは返事ができない。
レオンは体をずるりと滑らせるようにして、ソファの背に預けていた身を少し横向きに開いた。クッションにこめかみを押し付けながら、半分ほど閉じた瞼の隙間から、熱を帯びた流し目を送る。それから、ヴァルプスに向かって右手を伸ばした。
目の前にある、しかし物理的には届かないヴァルプスの角。その起伏や質感を脳裏に焼き付けるように、空中に見えない線を引いていく。それは空間に、相手の形をそっと写し取る儀式のようだった。
「……朝も、見ている。今日は光沢が違う、とか。水に濡れた質感の陰りを……風に揺るがない硬さを。そういう変化を、見るのも好きだ」
(……毎朝、ですか)
ぞくりと背筋に泡立ちを感じ、ヴァルプスは口を引き結ぶ。
「私にとって角とは、時間がちゃんと存在した証明なんだ。
君が今まで生きてきた時間が、そこに残っている。少しずつ育って、少しずつ時間を重ねて、生きた証拠がそのまま残る。
私は、それが好きなんだ」
そう言って淡く微笑んだまま、レオンはゆっくりと瞼を閉じた。
「……結果は、私が残す。……だから君は、そのまま、……」
言葉の最後は、静かな寝息へと溶けていった。
規則的な微かな寝息が、静まり返った室内に響き始める。
ヴァルプスはしばらくその姿を見つめていた。
無意味に動かしていた手を、ヴァルプスは止めた。
やがて、手元のフォークへ視線を落とす。
皿の上のタルトはすでに砂礫のように崩れ、形を失っている。
(……いつから、こうなっていたのでしょう)
なにもない空のグラスに口をつけながら、ヴァルプスは考える。
(純粋すぎる。だから、判断できない)
「説明が……できない」
漏れた声は掠れていた。
喉の渇きが、ふたたび訪れる。しかし、ヴァルプスは動けなかった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




