『不変の存在証明(システム・ハルト)』④
第4部:保存の概念継承
冷え切った書架の奥から戻ってきたレオンの胸元には、一冊の分厚い本が抱えられていた。
悪魔関連の歴史を調べていたはずの彼が、最終的に選び取ってきたもの――。
「おかえりなさいませ。……何よりでございますが、まずはそちらの椅子へ」
ヴァルプスは革椅子から音もなく立ち上がると、暖炉に最も近い特等席へとレオンを促した。
その豪奢な背もたれに身を預け、腕の中の本が膝へと落とされた、その一瞬。剥き出しになった背表紙の金文字を盗み見たヴァルプスは、心の中でわずかに眉をひそめた。
(……『晶嵐山脈の地質と冬の植生』、ですか)
仕事のログや市場の株価を追うわけでもあるまい。それでも、文字から情報を拾い上げることだけは、彼にとってどうしてもやめられない習慣らしい。
「ヴァルプス。これ、意外と面白そうだぞ」
レオンは膝の上の重みをそっと撫でながら、声音を少しだけ弾ませた。ヴァルプスは表情を崩さぬまま、先ほど完璧な状態へと調整しておいた銀無垢のジャグを手に取る。
「こちらはスパイスワインです。飲まれますか」
「いただこう」
レオンは勧められたワインを受け取り、ゆっくりと一口含む。温かい液体が喉を落ちていくのを確かめるようにいちど目を閉じ、やがて小さく吐息を漏らした。ヴァルプスの差し出した手へとグラスを返してから、彼は抱えていた分厚い本を膝の上で開いてみせた。
「ヴァルプス、これを見てくれ。『ペルシ・プラ』という常緑草だ。この地方では古くから悪魔除けの香草として扱われていたらしい」
「ペルシ・プラ、ですか」
「ああ、面白いのはその俗信でね。このペルシ・プラの種は、芽吹く前に九回も悪魔の元へ通うらしい。悪魔の承認がなければ、生まれてくることすらできないそうだ」
(悪魔の話。やはり、そこに引っかかりましたか)
椅子に座ったヴァルプスの動作に気づいたレオンは、視線をちらりと彼に向けた。
「ヴァルプス」
「はい」
「これは事実か」
「現世においては、古くから伝わる俗信です」
「つまり、違うのか」
「少なくとも、植物が悪魔の元を訪れるという記録はございません」
「では、君のところにも来たことはないのか」
「……残念ながら、私の元には届いたことがありません」
「そうか」
レオンは小さく頷いた。
だが、本を閉じることはなかった。
彼が開いた頁には、雪の下で青々と葉を広げるペルシ・プラの写実的なスケッチと、その根元に小さく描かれた、山羊の角を持つ悪魔の古い木版画が並んでいた。レオンの細い指先が、その不格好で愛嬌のある悪魔の頬の輪郭を、無意識のようになぞる。
ヴァルプスはその様子を見守りながら、レンズの奥の思考を静かに遷移させた。
(悪魔というシステムそのものではなく、悪魔が人間の中でどう語られてきたか――その『関係性の発祥』を、レオンはなぞろうとしている)
ヴァルプスが静かにレオンの横顔を観察していると、やがてレオンは考え込むように自分の顎にひとさし指の関節をあてた。
「人は悪魔を恐れていたから、この植物に意味を与えたのだろうか」
また、レオンはヴァルプスに視線を向ける。
(やはり、私に聞くのですね)
ヴァルプスは、その視線を受け流すように目を伏せた。
「あるいは、逆です」
「逆」
「植物を大切にする理由が、欲しかったのかもしれません」
「……」
「物語は、ときに保存技術になります」
「……つまり、人間は悪魔を恐れたから物語を作ったのではなく、理解できないものを保存するために物語へ変換したのか」
「そういう側面も、ございます」
「では、悪魔という存在そのものより、悪魔という概念のほうが長く残る可能性がある」
「……興味深い視点ですね」
「君たちは、それをどう考えている?」
「悪魔側ですか」
「ああ」
ヴァルプスは、レオンの膝の上の本へ一度視線を落とした。
「正直に申し上げれば、我々はあまり気にしていません。
契約が成立し、対価が支払われ、関係が維持される。それが悪魔にとっての現実です。
人間が我々をどう呼ぶかは、契約の成立条件ではありません」
「なるほど。君たちは、結果を見るのか」
ヴァルプスの耳が、わずかに揺れる。
「少し、違います」
「違う?」
「結果だけではありません。契約が成立するまでの条件、双方の選択、そして維持される関係。それらすべてが悪魔にとっての記録です」
「……それは、君自身の考えなのか?」
レオンの問いに、ヴァルプスは一瞬動きを止める。
「私自身、ですか。
少なくとも、私が契約者と向き合う際に採用している基準ではあります」
「……過程も含むのか?」
「ええ。契約とは、終点ではなく継続する状態ですから」
ヴァルプスはそこで少し顔を上げ、レオンに視線を返す。レオンは、その眼鏡の奥の、揺るぎないヴァルプスの瞳をじっと見つめ返した。数秒見つめてから、そっと視線を外す。額には微かにシワが寄っている。
「……理屈は、わかる」
ヴァルプスはすぐには答えなかった。
古い木版画の中で笑う悪魔へ、一瞬だけ視線を向ける。
「誤解であっても、それによって契約や関係が生まれてきた事実は消えません」
淡々と返される言葉を聞いたあと、レオンは自分の眉の端を指の腹でなぞりながら、考え込むように目を伏せた。
いちどだけ、ゆっくりと深いシワが刻まれ、取り繕うようにレオンは小さく咳払いをする。気持ちの切り替えを示すように、膝の上の本を今度こそパタンと閉じた。そして、ヴァルプスが再び差し出してきたグラスを手に取ると、ゆっくりと噛むように飲んでいく。その赤黒い液体を警戒するように、しかし確実に彼は器を空にしていく。
最後の一滴まで綺麗に飲み干し、空になった器をコン、とトレイに戻すとレオンは淡い吐息を漏らした。
その様子を、ヴァルプスは黙って見つめていた。




