『不変の存在証明(システム・ハルト)』③
第3部:孤立の静寂領域
ホテルの長い回廊を、レオンとヴァルプスは足音もなく歩いていた。
十一時からの部屋清掃の通知により、二人は室外での行動を余儀なくされていた。
外は猛吹雪だ。そんな外の酷寒から遮断された館内は、一定の温度と湿度で満たされている。
節電のためか壁の灯りは落とされ、代わりに点在する青瑠璃の魔石が青い光を寄木細工の床に投げかけている。
遠くのメインロビーからは、賑やかな笑い声がかすかな残響となって二人の耳に届いていた。
外出ができないゲストをなだめるために企画された、ワインの試飲会。いまのホテル内で最大といってもいいその人々の波は、凍った時のなかで、そこだけが脈打つ心臓のようだった。誰もが何かを成そうという目的があるわけでもないのに、ただ温もりを求めて吸い寄せられている。
どっ、と弾けた笑い声の方向へ、レオンは一瞬だけ視線を向けた。
首に巻いていたストールを口もとまで引き上げ、そのまま何も言わず歩き続けた。
ヴァルプスはその仕草だけで、意図を読み取る。
「レオン。こちらへ」
レオンを先導し、ヴァルプスはホテル内でもっとも静かな図書館へ辿り着いた。
彫刻の施された重厚な樫の扉を押し開けると、ふわりと爆ぜるような温風が二人の頬を撫でた。微かに漂う古い紙と蜜蝋の匂い。
宿泊者専用の図書館には指一本ほどの隙間もない静寂が満ちていた。カウンターにいた若いコンシェルジュが二人の姿に気づき、音もなく深く一礼する。
ヴァルプスが歩み寄り、相手の手のひらに折りたたんだ紙幣を滑り込ませる。コンシェルジュはそれを一瞬で懐へ収めると、静かに頷いた。他者がこの静寂を侵さぬよう扉に鍵をかけると、邪魔をせぬよう速やかに奥の控室へと気配を消した。
この土地のロイヤルファミリーによって持ち込まれた本が、堅牢な石造りの壁に沿って二階までびっしりと並べられている。あらゆる知が放つ装丁は圧倒的だ。天井から下がっているシャンデリアの灯りが、荘厳という言葉そのもののように、厳かに内部を照らしていた。
部屋の最奥、本棚の包囲から少し離れた重厚な大理石のマントルピースの中で、暖炉の火が静かに爆ぜている。耐熱硝子の向こうで揺れるオレンジ色の炎だけが、この部屋で唯一動いているもののようだった。
外の吹雪を忘れさせるようなその熱は、しかし広大な空間をすべて満たすには至らず、高い天井の隅や、無数に並ぶ書架の隙間には、やはり冬特有の、どこか薄い硝子のような冷え込みが澱みとして残っていた。
暖炉の傍らに設えられたサイドボードには、ロビーの試飲会に合わせるように、温められたスパイスワインの入った銀無垢のジャグや軽食の類が用意され、甘い湯気をひっそりと立ち上がらせている。
レオンは小さく息を吐き、無意識にこわばっていた肩の力を抜く。
「……ここは、暖かいな」
その背を見守るように一歩引いて佇んでいたヴァルプスが、静かに応じる。
「ええ。ですが書架の奥は冷えます。あまり長く留まられるのは、お体に障るかと」
ヴァルプスはそう言いながら、レオンを暖炉に近い一人がけの革椅子へと促した。
しかし、レオンはその豪奢な椅子に身を預けることはしなかった。差し出された背もたれを一瞥しただけで、彼はそのまま、薄暗い書架の隙間へと足を踏み入れる。
「ちょっと見てくる。……すぐ戻る」
「はい」
ヴァルプスは書架に隠れたレオンの背中を見送ったあと、端末を取り出して護衛たちの位置を確認する。
この図書館は中央が吹き抜けになっており、二階部分には外周をぐるりと囲む中二階のキャットウォークが設けられている。その影、一階にいるレオンからは見えない柱の裏に、ハヤテがすでに気配を消して潜んでいた。
襟元に仕込んでいた小型マイクに指先を当てた。
「シカ1。子猫は図書館北側へ向かいました」
数十秒後、耳穴に仕込んだレシーバーから通信が入る。
『シカ1。子猫を視認。周囲に人影なし』
レシーバーから響くハヤテの低い声が、ヴァルプスの耳元でクリアに跳ねた。
『……ターゲット、北側三番目の書架、歴史区画に接近。古い歴史書の棚を調べているようです。
……あそこは冷えますね、子猫を早く暖炉の前に戻した方がよろしいのでは』
ヴァルプスは暖炉の炎を見つめたまま、声音に感情を交えずに応じた。
「油断せず、彼が手に取った本の種類も記録してください。仕事へ意識が向いた様子があれば即座に報告を」
ヴァルプスは唇をほとんど動かさずに命じた。耳の奥でハヤテの短い応答を確認すると、何事もなかったかのように表情を消す。
サイドボードから銀無垢のジャグを持ち上げ、温められたスパイスワインをゆっくりとグラスへと注ぎ始めた。
トポトポと、静かな部屋に液体が落ちる音だけが響く。ヴァルプスは注ぎ終えたグラスを持ち上げ、それをそっと唇へと運んだ。
一口だけ含む。毒物の有無、香辛料の配合、温度、アルコールの度数を確かめるためだ。のちにレオンが戻りスパイスワインに興味を持った時に勧められるかどうかの前準備であった。
(問題なし)
しばらく口内に留めてから、ごくり、と喉を鳴らして嚥下する。それから、ヴァルプスはしばらく目を閉じてアルコールの度数を推測した。
ゆっくりと瞼を開く。グラスの縁に残る赤紫の雫を見つめるヴァルプスの耳に、遠くのロビーの狂騒はもう届かなかった。
静寂が再び満ちていく。カウンターのコンシェルジュが下がってから、すでにそれなりの時間が経過していた。
暖炉の薪が、パチ、と小さく爆ぜた。
(……まだ、戻りませんね)
ヴァルプスがそう眉をひそめ、襟元のマイクへ意識を向けた、まさにその瞬間だった。
耳穴のレシーバーが、ちり、と硬質なノイズを立てて繋がる。
『……シカ1より報告』
上空のキャットウォークから見下ろしているハヤテの声は、先ほどよりもわずかに低く、慎重な響きを帯びていた。
『ターゲット、歴史区画……帝国史より移動。現在、西側奥の悪魔関連の棚へ向かいました』
ヴァルプスの指先が、微かに止まる。
「……了解。監視を継続。干渉は不要です」
『了解』
ヴァルプスは革張りの椅子に浅く腰をかけ、ワインを一口飲む。ゆっくりと嚥下したあと、視線だけはレオンが消えた書架のほうへ向いた。
(昨日の会話が、まだ残っていましたか)
止める理由はなかった。
レオンがそこで何を見つけ、何を思考しようとも、それは契約者である彼の自由だ。
引き戻すための合理的理由なら、脳内にいくらでも弾き出すことができた。だが、その必要性を探すのはやめた。ただ黙って、レオンが自分の元へと自らの足で戻ってくるのを待つ。
――安全域にいても、芯のない酔いかたをするな。
かつて自身を導いたバルナザールの言葉が、ふと脳裏をよぎる。
たとえ服が花に塗れていようと、顔に血がついていようと、背筋をまっすぐにして契約者の横にいられれば、悪魔であると褒められる。
(グラスの縁にすがっても、なにが変わるわけではない)
ヴァルプスはワインを飲み干すと空のグラスを返却用のトレイへと戻し、再び静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。暖炉で揺れる炎のオレンジ色が、彼の銀縁のレンズごしにパチリと爆ぜた。
それから数分後。
薄暗い書架の隙間から、わずかな衣擦れの音と、聞き慣れた足音がこちらへと近づいてくる気配がした。
ヴァルプスは、ただ静かに、その影が光の中に現れるのを待った。




