『不変の存在証明(システム・ハルト)』②
第2部:感傷の遮断処理
ルームサービスで取り寄せた簡単な朝食を終えたあと、ヴァルプスは歩きながら端末を取り出した。
二日前に届いた、バルナザールからのメールを表示する。
返信文は、昨夜のうちに完成していた。
『あなたが介入すると計画が複雑化するためです』
理由は、それだけだった。ただそれを無礼のないビジネス用語で丁寧に編み上げた。
長文のなかに誤った綴りがないか確認したあと、送信ボタンへ指を伸ばす。
(顧問――いや。彼の指摘は正しい)
事前報告を省略した以上、非礼との評価は受け入れる。
だが、レオンの休養計画を成立させるうえで、あの時点で承認者という不確定要素を増やす選択肢は存在しなかった。
結論は、今も変わらない。
レオンはまだ眠っている。
起床まで、およそ1時間半。
(……今なら、何か起きても対応できる)
ヴァルプスは立ち止まると、静かに送信ボタンを押した。
ゆっくりと隣の寝台へと視線を移す。ヴァルプスの長身でさえも内包する大きさの中で、レオンの微かな寝息が聞こえる。
寝台横のソファに静かに腰を下ろすと、ヴァルプスは影の中から本を取り出す。
読むのは経営書か、あるいは古い悪魔法律書か。彼にとって中身は何でも良かった。目的は、外を叩く吹雪の不規則な風音を相殺するための環境音を紡ぐことだった。しかし手に握られたのは先日市場で手に入れた悪魔についての絵本で、ヴァルプスは無意識にこれを取り出した自分を分析する。
ヴァルプスは一定の周期を保ちながら頁をめくる。微かに爆ぜる紙の擦れる音が、仄暗い部屋のなかに満ちていく。
もう読み終わってはいたのだが、絵本のなかのあちらこちらに散りばめられた契約者の言葉にひっかかりを覚えた。
(お前を、知らなければよかった、か)
紙面に刻まれたひとつの言葉を心のなかで反芻し、ヴァルプスは目を伏せる。
これまで三百年、幾度となく契約をこなし、彼なりに合理的に対象を接してきた自負がある。そのシステムそのものを、根底から否定されるような奇妙な驚きが胸の奥を微かに侵食していた。
(――レオンも、いつかこの境地に至るのか)
その可能性を、否定する根拠はなかった。
(いや。そもそも私は、レオンという契約者を――)
絵本の縁に滑らせていた指先が止まる。静まり返った部屋の中で、まだレオンが眠っているという事実だけが、己がひとりであることを強く意識させていた。
「……ヴァルプス」
「はい」
ヴァルプスは反射的に返事をしてから、立ち上がり眠るレオンの顔を覗き込む。
レオンは寝台の縁まで転がっていて、目を閉じ眉を寄せてぴくぴくと唇を歪ませていた。
「み、みやげ……ちがう」
「……」
「ちがう。それでは……ログが」
どうやら昨日の記憶か、あるいはバカンスという不慣れなシステムの処理に、その脳細胞が混乱しているらしい。
絵本の言葉に一瞬揺らいだ己の感傷を、ヴァルプスは即座にしまいこんだ。
寝台の縁に腰を落とし、その褐色の額へ、静かに白い指先を添えた。
トントン、と、規則正しい心拍と同じリズムで優しく額を叩く。同時に、指先から微小な魔力を循環させ、レオンの精神の波形を安定の数値へと誘導していく。
レオンの呼吸が落ち着いたところで、ヴァルプスは小さく息を吐いた。
「……よろしい」
囁かれた低音の防壁に守られ、レオンの歪んでいた唇が、やがてゆっくりと緩んでいく。眉間のシワが完全に溶けて消え、レオンが再び深い眠りへと沈んでいくのを見届け、ヴァルプスは安堵したように眼鏡のブリッジを押し上げた。
読みかけの絵本を一度サイドボードに置き、ヴァルプスは遮光カーテンの隙間から窓の外へと視線を向けた。
朝の八時を回り、日はすでに昇っているはずの時間だった。しかし、硝子の向こうにあるのは太陽の温かみなど一片もない、境界線の消失した乳白色の世界だ。吹き荒れる雪と濃い霧が混ざり合い、空も地面も判別のつかない吹雪――完全なホワイトアウト。
緩くのたうつ白風を見つめていると、衣擦れの音がする。
「ヴァルプス」
「はい」
「つの……が」
ふ、とレオンの口元が小さく、弧を描いた。
「……」
ヴァルプスは、微動だにできなくなった。
己の悪魔の象徴。それを夢の底で呼び、好いていると笑うレオン。
レオンの黒髪に紛れるように生えている黒角を、ヴァルプスは凝視した。
(……起きていれば、この発言の真意を問えた)
その思考の奥に、願いにも似た感情が浮かんだが、もうそんなことを考えるのはやめる。
(――睡眠中の思考は、単なる脳内情報の整理過程に過ぎない)
これ以上の感傷の肥大化は、今日の完璧なバカンス計画において無駄なノイズでしかない。
ひどく冷静に、いつもの管理者の顔を取り戻してはいたが。胸のどこかがちくちくと刺されているようだった。
その計算不可能な痛みの正体を、ヴァルプスはまだ正しく言語化できない。
しばらくするうちに、ヴァルプスはもういちど絵本を掴み、表紙をめくった。
痛みの、その余韻が残る指先でめくる頁は、先ほどとは少しだけ違う光を帯びているようにヴァルプスには見えた。




