『不変の存在証明(システム・ハルト)』①
第1部:余白の静寂制御
午前六時。
ヴァルプスは目を開けるより先に、右手へ意識を向けた。
掌のなかに、細い指先がある。毎夜の契約体系に基づいた、義務であり、かつこの男を壊さないための魔力循環。
伝わってくる心拍は一定。昨晩、夜更かしをして話し込んでいたわりには、彼の精神の波形は安定している。
(――昨日よりも、安定している)
レオン本人すら気づかない微小な回復を、ヴァルプスは脳内の管理表へ正しく記録する。
そこでやっとヴァルプスは瞼を上げた。薄暗い室内に視線を巡らせ、サイドボードに置いてあった端末に右手を伸ばす。
網膜認証でロックを解除する。画面に並ぶ通知の数字を確認した後、現在地域の気象データとインフラの稼働状況へとアクセスした。
画面に踊る警告色を見つめたあと、ヴァルプスは遮光カーテンへ視線を向ける。
(吹雪は予定どおりか)
続いて世界の株価市場を確認する。
(株価に異常なし)
リスクの不在を確認し、ヴァルプスは端末を伏せた。
最小リスク、最大安定。今日の彼のコンディションを昨日より安定にするための、完璧な引き籠もり計画のプロセスが、ヴァルプスの脳内で組み上がっていく。
繋いでいた指の力を、少しずつ緩めていく。完全に肌が離れた瞬間、魔力循環が途切れ、わずかな喪失感を感じる。同時にレオンが眉をひそめて身じろいだ。
寝返りを打とうとするレオンの肩へそっと手のひらを置き、微小な魔力を流して眠りの続きへと誘う。レオンの安らかな寝息を確認し、静かに手を引いた。
ホテルが誇る、ピンと張られた純白の羽毛布団。その重厚な寝具の檻から、ヴァルプスは慎重に床へと滑り出た。
隙間から滑り込もうとする外気が残された彼の肌を驚かせぬよう、剥ぎ取った布団の端をレオンの肩口へと優しく押し込み直す。レオンが着ているシャツの胸元には大きな黒文字で「I ♡晶嵐山脈」と印字されている。
これは一六日に、レオンが土産物屋で手に取っていた一枚だ。記念として保管されるものだと思っていたが、昨夜にはもう寝具として袖を通していた。
(それをナイトウェアにまで選ばれるとは、思いませんでした)
ヴァルプスは布団を整えながら、目を細めて小さく笑った。
レオンは、レオンが思っている以上にバカンスというシステムを享受できているらしい。
それは暗がりで灯るランプのように、彼がまだ荒廃しないでいられるという、微かな、だが確かな望みでもあった。
ヴァルプスは穏やかな寝息を立てるレオンの横顔をじっと見つめる。
(さて。まずは部屋の点検。それから室温を二度上げる。起床予定時刻までは、あと四時間)
完璧な引き籠もりを全うさせるためのタスクを脳内で処理しながら、ヴァルプスは音を立てずに洗面室へと向かった。
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大理石の洗面台が据えられたその前室で、ヴァルプスは音もなく衣服を着替え、身支度を整えた。
長い銀髪を後ろ頭でまとめあげたあと、影の中から、使い込まれた鹿革を取り出す。
頭上から伸びる一対の黒角を、吸い付くような革の布地で彼は静かに磨き上げる。
悪魔にとって角は、その存在価値を担保する絶対的な実体資産だ。ヴァルプスはその確固たる価値を確かめるように、一定のリズムで布を滑らせ続けた。
ひととおり磨いたところで銀縁の眼鏡を耳に掛け、鏡の中の己の双眸と視線を合わせる。
大理石の洗面台にタブレットを置き、暗号化通信アプリを起動すると同時にレンズの奥で思考の解像度を切り替えた。
画面が分割され、ホテルの外周、およびホテルの別室に配備した護衛班からのステータスログがリアルタイムで流れ始める。彼らの表情を確認したあと、ヴァルプスはタブレットの液晶の硝子面に指先を滑らせ、次の画面へと遷移させた。
「おはようございます。1番手の皆さん、および3番手の通信担当。定時ブリーフィングを始めます。……まず、外の状況を教えてください」
『こちらファーストより定時報告。現地時間〇七四五。積雪により全ルート凍結。外部からの不審者の接近、魔力の揺らぎ共にゼロ。完全に孤立しています』
『ワフン!』
テキストの向こう側、画面のひとつでは風雪避けのシェルターの中に息を潜めるカイの顔と、画面を覗き込むようにしてカメラに迫るスレイの黒いマズルと白い息が映し出されていた。
「……スレイ。カメラが近すぎます。三センチ引きなさい。あなたの鼻の湿度まで伝わってきます」
ヴァルプスは眉一つ動かさずに告げた。画面の向こうで、スレイの黒いマズルが不満げにフンと息を吹きかけ、液晶を一瞬だけ白く曇らせてから、ようやく適切な距離まで後退する。
「ポップ。ファーストへの引き継ぎにおいて、ログに残っていない体感の違和感はありますか」
『システムおよび、クロノの感応検知における数値的な異常はありません。……ただ、〇六〇〇頃から風の魔力波形が、自然の低気圧にしては少々規則的に過ぎる印象です。
物理的な雪崩の危険性はありませんが、音が不気味です』
「結構。自然災害による足留めは計算内です。ポップ、サードの皆さんは予定通り業務を終了し、速やかに休息へ移行してください。
スレイ、カイ。今の報告を念頭に置き、シェルターの防雪結界の出力を五%引き上げてください。一時間ごとに交互に外周レピーターの除雪を。機械の自動検知が雪で狂う前に、あなたたちの物理的な目(視覚)で監視を維持するのです」
『了解』
『ワン』
スレイの短い吠え声と、カイの硬質な声が重なる。
ヴァルプスは視線を別画面へ向ける。
「ギブス」
『異常なし。ホテル内動線は維持しています』
「ハヤテ。ホテルの厨房および管理室の様子は」
『ホテル運営情報です。物流は昨夜をもって停止。十八日以降、生鮮食材の追加搬入予定はありません。
厨房は本日より保存食・根菜主体の献立へ移行します』
「CEOへの影響」
『栄養設計上の問題はありません。ただし、葉物野菜の提供は当面見込めません』
「承知しました」
『……なお』
ハヤテは手元の端末を操作し、淡々と告げた。
『葉物の在庫減少について調査した結果、通常消費に加え、一部宿泊客による大量の追加注文が確認されました』
「宿泊客」
『はい。当隊所属、ルーク隊員です。種族特有の嗜好による過食と推測されます』
一瞬、沈黙が生まれる。
画面の向こうでポップが肩を震わせて口もとを覆い、ギブスが無表情でヴァルプスを見つめ、カイは小難しい顔をして口を引き結び、スレイが小首を傾げた。
ヴァルプスは眼鏡を指先で押し上げる。
「勤務への影響、およびホテル側への損害は」
『ありません。費用はすべてルーク隊員の個人口座へ適正に請求されています。ホテル側とのトラブルもありません』
「……承知しました。ルークには「厨房備蓄を食べ尽くさない程度に自制しろ」と伝えてください。彼の食欲でCEOの栄養摂取計画が乱れるのは本意ではありません」
『承知いたしました』
「私からは以上です。各自、十時に向けた配置に着いてください。定時ブリーフィングを終了します」
『了解です、ヴァルプス様』
『了解』
『了解いたしました』
『了解』
『ワン!』
それぞれが敬礼をしたあと、通信のウィンドウが次々と閉じていく。
完全に暗転する寸前、画面の端でカイがぼそりと「……スレイ。お前も肉ばっか食うなよ」と釘を刺す。スレイの「ワウン」という気の抜けた声とともに、通信が途絶えた。
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