『感情の添付ファイル(アタッチメント・ログ)』⑦
第7部:試行錯誤の入力補助
背後の男たちは去った。だが、レオンの思考だけは、まだあのレストランの席から一歩も動いてはいなかった。猛吹雪のなか、ヴァルプスはそんなレオンを連れてホテルのロビーへ逃げ込む。
外気との温度差のせいか、ロビーに入るなり小さなくしゃみをしたレオンの腰を支え、ヴァルプスは部屋に戻る。
鍵を開けて滑り込んだ室内は、あらかじめ低く入れられていた暖房のおかげで、微かに木肌の匂いが張り詰めていた。
ヴァルプスはレオンの肩から湿ったストールを抜き取り、次いでダウンコートに手をかける。レオンはおとなしくヴァルプスの眼の前で腕を伸ばし、目を伏せた。
レオンにタオルを渡し、内湯に誘導したあと、ヴァルプスはすぐさま窓の厚いカーテンを引きにいく。ふと視線を落とした硝子の向こう、そこはすでにすべての事物の輪郭が曖昧に溶けあった、白の世界だった。ヴァルプスは静かに目を細め、外の世界を拒絶するように深くカーテンを閉ざした。
――途端に視界から白が消え、室内は暖房の温かい影に満たされる。
襟元に仕込んでいた小型マイク越しに護衛たちに指示を出し、端末を操作する。ふと顔を上げると、いつの間にか風呂から上がったレオンが、カメラの奥で奇妙な徘徊を始めていた。今朝の市場で食べきれずに鞄へ放り込んでいたあの赤人参をパスタ瓶の中に入れ、両手で大事そうに抱えて室内をうろついている。
褐色の肌の上に無造作にバスローブを羽織り、水気を含んだ黒髪もそのままに歩いているものだから、ヴァルプスは彼を呼び止め、タオルを頭部にかけてやった。
「ヴァルプス。人参をどこに置けばいい」
「レオン。それは本来、食材です」
「葉が綺麗だ」
「そうですね」
「だから少し置く」
「……数日だけですよ」
「ああ」
「温度の低いところに、置いたほうが良いと思います」
「わかった」
レオンはパスタ瓶をまるで王笏のように胸元で抱えたまま、不遜に、静かに顎を引いてみせた。その仕草だけは、妙に堂に入っている。ヴァルプスはまるで王冠を整えるかのようにレオンの頭部に両手を添え、静かにその雫を払った。
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引き締まった白肌に黒いシャツを通し、着替えを済ませて内湯から戻ると、テーブルにはもう食事が広げられていた。
塩のきいた生ハム、豆のスープに薄切りの羊乳のチーズ。それから、付けあわせのジャムの瓶。
どれも簡素でありふれたものだったが、ヴァルプスにとってはいまのレオンにちょうど良いように思えた。
レオンは椅子に座り、バスローブ姿のまま、片手でスープのカップを持ち上げている。そのカップからは、霧散しそうなほど弱々しい湯気が、所在なげに揺らめいていた。持ち上げたまま、一口も口をつけられていない。
レオンはスープの表面を凝視したまま、太ももの上においた手帳を左の指でリズミカルに叩く。その焦点の合わない視線に、ヴァルプスは小さく息を吐いた。
「レオン」
「ん」
「スープが冷めますよ」
「ん」
ヴァルプスは思い立ち、テーブルからチーズの欠片を摘み上げた。そのまま身を乗り出し、白無垢のチーズをレオンの唇へとそっと押し当てる。
レオンは視線をスープに固定したまま、ごく自然に口を開け、ヴァルプスの指先ごとチーズを迎え入れた。
(完全に、思考へ集中していますね)
ヴァルプスは苦笑しながら、そっと指を引き抜いた。
同じ動作を数回繰り返したあとで、頬袋を作ったレオンはようやく咀嚼を始め、やがて嚥下する。
「……ヴァルプス」
「はい」
「土産とは、なんだろうな」
唐突に呟かれたその問いに、ヴァルプスは小首を傾げた。
「……土産とは」
ヴァルプスは少し考えて、穏やかな笑みを浮かべた。
「私は物よりも嬉しいですね。その人が、自分のために選んでくれたという……その事実が」
「……事実?」
レオンは、眉を顰めた。顔を上げ、ヴァルプスを見つめる。
「定量化できない」
「そうですね。利益には換算できませんが、私には十分価値があります」
ヴァルプスは穏やかに目を細め、レオンの持つカップに視線を落とした。
「私は、そういうものが好きですね。……スープ、冷めないうちにどうぞ」
「……」
納得のいかない顔のまま、レオンはカップの側面に指を当てる。温度を確かめた後、ぬるいスープを勢いよく煽った。
「食べた」
空になったカップをテーブルへと無造作に置き、歩きながら口もとを手の甲で拭う。その青い瞳の奥には、まだ衰えていない探求の火種が宿っていた。
レオンはそのまま迷いのない足取りでタブレットを掴み上げると、ソファへと身を沈め、猛然と仕様書を書き始めた。
静まり返った室内に、淡々とした電子的タイピング音だけが響き始める。
ヴァルプスは残ったチーズをのんびりと口に運びながら、ただ静かにその横顔を見守った。
(……夜食でも、作っておきますかね)
外の猛吹雪を拒絶した温かい部屋の中で、ヴァルプスは小さく微笑み、レオンの思考の邪魔をしないよう、静かに自分の皿を片付け始めた。




