『感情の添付ファイル(アタッチメント・ログ)』⑤
第5部:思考の過負荷停止
大きい赤と小さい白。
マリーは、初め二人をそう視認した。
レストランの厨房、その勝手口からフロアへと入り込んできた者たちに、シェフと店員数名が頭を下げる。柱の陰で、ウエイトレスに変装して潜伏していたマリーは、給仕用のトレイを胸元で固く握りしめた。
仕掛けるべきか、退くべきか。ヴァルプスの声だけが、彼女の暴発を辛うじて繋ぎ止めていた。
――端末で照合するまでもない。
大きな赤に視線を投げる。仕立ての良い漆黒のスーツの上に、赤いダウンコートを無造作に羽織っていた。人間の姿を模してなお隠しきれない、見上げるほどの筋骨逞しい体躯が、高級な生地を破らんばかりに押し広げている。その傍らに静かに佇む小さな白は、雪景色に溶けるような純白のコートに身を包んだ、底冷えするほど顔の整った男だ。
マリーは胸元の名札を弄り、声を極小の音声コードに変えて無線に吹き込んだ。
「シカ2より本部へ。……敵対意思の有無は不明。ですが、特定を完了しました。
AGRA社のCEO、アンドレ・ド・アネト氏です。同行者は秘書のユベール氏」
『……待機』
ヴァルプスの落ち着いた声が耳奥で切れた、その直後だった。マリーの背のほうに、ふわりと微かな風が巻いた。
案内係の店員に続くアンドレの身長は、優に二メートルを超えている。マリーの視線の遥か頭上、そびえ立つ一対の角が天井の明かりを遮った。圧倒的な質量がそこにある。だが、奇妙な感覚だった。彼が一歩を踏み出すたびに、フロアに満ちていたはずのあの凶悪な威圧感が、一歩ごとに目減りしていくのだ。マリーの心臓の痛いほどの鼓動すら、なぜか急速に静まっていく。
竜人特有の獰猛さは綺麗に消え失せ、むしろどこか緩やかで、楽しげな歩みですらあるように錯覚させられる。
マリーが息を潜めて見送るなか、その巨体はフロアの奥へと進んでいく。
――そしてあろうことか、レオンの真後ろの空席へと、ドサリと腰を下ろした。
ヴァルプスの視線は、極めて自然なまま正面のレオンへ据えられていた。だが、その対面の席、アンドレの斜め向かいに腰を下ろしたユベールが、音もなく眼鏡のブリッジを押し上げる。
遮るもののない至近距離で、一瞬だけ彼とヴァルプスの視線が重なった。
――互いに、その一瞬で十分だった。
相手もまた、主の傍らに立つ本物の実務者。
それだけを互いに確認すると、二人は何事もなかったかのように、それぞれの主へと意識を戻した。
ヴァルプスが見守る中、テーブルに置かれていたレオンの端末が短く振動する。
「……マルヴェイから、返事が来ていたぞ」
「そうですか」
「この根菜は、白人参らしい」
「そうですか」
「……聞いてる?」
「……はい」
そんな他愛もない会話の直後、石皿の上に金属が跳ねる音がした。
「ユベール」
「はい」
「君の選ぶものは費用対効果が完璧すぎて、美しくない」
低い、だが驚くほどよく通る声が、薄い背もたれを抜けてレオンの耳へと滑り込んでくる。
「ユベール、あのね。本来、お土産を渡すという行為は合理的な計算の対極にある。自分の魂の体温をオブジェクトに閉じ込めて、相手の精神に直接触れる行為――極めて生々しい官能なんだよ」
「はい」
「己の計算を狂わせ、胸を焦がしながら選んだモノでなければ、相手の心には届かない」
金属同士がぶつかるような音が、何度か響いた。
「リスクを恐れて計算されただけのお土産なんてね、渡す側にとっても、受け取る側にとっても、ただの冷たい事務処理でしかないんだよ」
「そうですか」
「理解できたかい」
「いえ、まったく」
「やれやれ。君は、もっと官能を感じなさい」
……カツン。
レオンの手の中で、端末の角が皿の縁に当たった。彼は、その姿勢のまま動かなかった。
(……構造としては、百パーセント理にかなっている)
義務と契約。
それだけが、レオンにとって世界と関わるための最も安全な手段だった。
計算されたパッケージを事務処理と断じられる。その一言は、自身の本質を外側から抉られるに等しかった。
だが――
(否定、できない)
あまりにも、論理として成立してしまっている。
拒絶したい感情と、論理的な納得が脳内で正面衝突を起こす。処理落ちしたCPUのように、レオンの思考は停止した。
ヴァルプスの視線が、微動だにしないレオンの右手へ落ちる。
(……なんですか、この負荷)
ヴァルプスの心に、契約を通してレオンの精神の負荷が伸し掛かる。
精神が傷ついているというより、思想同士がぶつかっている。そんな違和感にヴァルプスは眉を寄せた。
呼び掛けることはできた。だが、その一声は、今まさに始まった彼の思考を断ち切るだけだ。
(……でも、防げなかった)
ヴァルプスは焼き菓子の表面へクリームを落とし、塗り広げる。
時間をかけて味わい、自分の皿を空にする。何気ない動作で店員を呼び止め、追加の特大トゥルトを注文した。
レオンは、まだ動かない。




