『感情の添付ファイル(アタッチメント・ログ)』③
第3部:隠蔽の術式解除
人参の葉が、振動と共に揺れる。
ガシャ、と重い金属音が響き、四人乗りのゴンドラが速度を落として駅舎へと滑り込んだ。自動で開いた扉から、麓の街よりも一段と鋭い、冷涼な山の空気が容赦なく流れ込んでくる。
後続のゴンドラからも、次々と乗客たちが降り立ち始めていた。先を急ぐスキーヤーたちはゴンドラのドアの外側に備え付けられたラックから、自分のスキー板を威勢よく引き抜いていく。ストックがぶつかり合う金属音が駅舎の中に慌ただしく反響した。
レオンは人参の葉が折れないようトートバッグを胸に抱え直し、スキーヤーたちの騒がしい熱気の余韻が残るステップへと、ゆっくりと一歩を踏み出した。
サングラスを外して空を見上げると、色褪せた青空には曇天がかかっていた。
市場で出会ったおしゃべり好きな店主から、昼には空の色が変わるだろうと言われたとおりの、冷たく低い雲が広がり始めている。
はあ、と吐いた息が白く煙った。レオンは背中に手をまわし、大きなフードを被る。
ヴァルプスの姿を探すと、彼は駅舎の壁際で端末を操作していた。時折、銀髪に埋もれた耳元に指をかけている。護衛たちと連絡を取り合っているのだろう。気になってあたりに視線を投げてみたが、見知った顔の人物はいない。
(昼のチームは、ディー、アンカー、マリー……あと、誰だったかな)
レオンは視線を落とし、トートバッグからはみ出した人参の葉に指を這わせた。
ヴァルプスが歩いてくる。その長身が風を切りながら自分の横に並び立ち、暗い影が落ちることでレオンは奇妙な安堵感を覚えた。違和感に眉を顰めたところで、ヴァルプスから声がかかる。
「レオン。天候を確認しました。午後からは荒れ模様になるそうです。
食事の後は、すみやかに麓に戻ったほうが良さそうです」
「そうか。店主の言ったとおりだったな」
ヴァルプスは、周囲を囲む針葉樹の隙間から薄曇りに烟る太陽を仰ぎ見て、言葉を続けた。
「ええ。悪天候が数日は続く見込みであれば、この上にある千晶原高原へ行くスケジュールは、調整し直さなければいけませんね。
……さてレオン。お腹は空いていますか?」
「もちろん。天気が崩れる前に、それだけは済ませておこうと思ってここに来たんだ。……お目当てのものを食べるために」
「では行きましょう。足元に、お気をつけて」
「……君もね」
--
たくさんの人の足跡が混ざる雪道を踏みしめながら十五分ほど歩いた先に、その緑の屋根のレストランはあった。
雪を湛えた山肌に、風にたなびく大きな垂れ幕が鮮やかに映えている。店の目印となっているのは、巨人族の道具を彷彿とさせる、見上げるほどに巨大な木製のフォークとナイフの看板だ。
『大叉亭』
素朴ながらも圧倒的な存在感を放つその木製のカトラリーが、ここが冷え切った身体を満たしてくれる場所だと告げていた。
低く垂れ込めた灰雲とは対照的に、人々のざわめきが耳を打つ。
店の外の雪原には樽のテーブルとカラフルに塗られた木の椅子が乱雑に刺さり、そこで客たちが賑やかに食事を楽しんでいる。湯気を立てた皿を囲みながら、黙っている者など誰もいないかのようなその喧騒に、レオンは青い目を瞬かせた。
ふいにピンク色のジャケットを着た人物が二人の眼の前を歩き始める。ゆらりと揺れた金色の尻尾の先で、赤いバンドが目を引いた。レオンが思わずその色を目で追うと、しなやかに跳ね上がった尾の先は人物の左腕を打ち、そこでぴたりと止まる。腕に嵌まる腕章には、デフォルメされた兎のワッペンが縫い込まれており、レオンは見覚えのあるデザインに眉を上げた。
思わずレオンはヴァルプスを見上げる。彼はなにも言わず、赤い目をレオンにちらりと向けるだけであった。
眼の前の人物に習い、店先の荒いカーペットの上に靴裏の雪を擦り付けていると、やがてその人物は先導者のように木の扉を開け店内に入っていく。閉じきらない扉の縁をヴァルプスが掴み、レオンを誘導した。
暖かい空気がレオンの皮膚を撫でる。店内の壁にかけられた古いスキー板とストックに目を奪われている間に、ヴァルプスは店員に挨拶を交わしていた。
「こんにちは。お食事ですか?――あいにく店内のテーブルは完全予約制となっておりまして。ご予約の方でしたら、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
丁寧な店員の問いかけに、ヴァルプスは微笑みながらポケットから端末を取り出した。それを店員が持つ自動受付機にかざすと、短い電子音が響く。
「確認致しました。ヴァルプス様ですね。確かに承っております。どうぞこちらへ」
「ああ」
店員に促され、二人は入口から程遠い、窓際の席へと向かった。周囲の席は空いている。長年の客入りのせいで角の取れたと思われる赤茶けた長椅子に向かい合って座ると、薪ストーブの熱気が身体を包み込んでいく。
レオンはたまらずダウンコートの前を広げ、それを脱いで椅子の上に横たえた。続いて首元のストールに手をかけようとして、すこし困ったように眉を寄せた。
「ヴァルプス、ストールを外してもいい?」
「問題ありません。ただし、店を出る前に首に巻き直してください」
「わかった」
ストールを外したレオンの黒髪から、はらりと隠蔽の術が解け、小さな黒い角が現れる。ヴァルプスはその頭部を確認し、いちど周囲に視線を走らせたあとで自分のストールに指をかけた。微かなグリッチと共にヴァルプスの頭部にも湾曲した角が現れる。
レオンが小さく息を吐いたところで、店員が近づいてきた。
「お水は、炭酸ありとなしのどちらにいたしましょう?」
メニューを開きながら店員が尋ねる。
ヴァルプスはレオンに視線で確認を取ることもなく、「炭酸ありのミネラルウォーターを一本」と注文を通した。そのまま、レオンがメニューを見ながら生真面目に呟いていく注文に手短な応答を返しながら、店員に伝えていく。
「――畏まりました」と店員が下がってから三分もしないうちに、細かな水滴を纏った硝子のボトルが運ばれてきた。店員が手際よく王冠を抜くと、小気味よい音が店内に流れる微かなBGMの合の手となる。
透明な液体の中で、無数の気泡が音を立てて弾けた。レオンはグラスに注がれた炭酸水を一口含む。冷たい泡の刺激が喉を通ると、少し強張っていた身体が解きほぐれていく気がした。
横日から差し込む光に、ヴァルプスの角が片側だけ照らされる。レオンはその角の輝きを見て、背筋を伸ばしなおした。そこに角があるのだから仕方がない、とも言える。
潤んだ唇をグラスの縁から離しながら、レオンは上目遣いにその角を見つめた。
「レオン」
「ん?」
「先程から、私の角を見ていますが」
「そうだな」
「何か気になることでも」
「いや」
「では、何故見ているのですか」
「なんとなく」
ヴァルプスは端末を掴み、指先を動かしたあと、動きを止めて端末をテーブルの脇に置いた。些かの気まずさが彼の行動を阻害する。自身の角について、なにか突拍子もないことを言われることを、ヴァルプスは恐れた。
レオンの視線に耐えかね、下を向くとテーブルの端に置かれた小さな硝子瓶に目が留まる。そこには花ではなく、水栽培された小さな根菜が活けられていた。白く細い根が水の中で広がっている。その頭頂部から伸びる、柔らかく鮮やかな緑の葉のシルエットは――レオンが持っているトートバッグの中身と、よく似ていた。
「これは。人参、ですかね」
「……大根ではないだろうか」
「蕪かもしれません」
ヴァルプスは手を伸ばし、葉に白い指先でそっと触れた。その何気ない、けれどひどく優しい手つきを眺めているうちに、レオンの意識は根菜のほうに向けられていく。
「私は、根菜類に詳しくない……」
「気になるなら、あとで調べましょう」
「そうだ。マルヴェイに送ってみるか」
レオンは頷いて端末を取り出すと、根菜の写真を一枚撮った。
ヴァルプスは内心ため息を付きながら、そのまま根菜の特定推理論へと話をそらしていくのだった。




