『感情の添付ファイル(アタッチメント・ログ)』②
第2部:契約の変動評価
店主にタイを包んでもらい、手渡されると、レオンは大事そうにトートバッグのなかにしまい込んだ。それから、あたりを見回す。
晶嵐山脈の険しい稜線から溢れ出したばかりの朝陽は、まだ低く、鋭い。それは石畳の隙間にこびりついた薄氷を硝子細工のようにきらめかせ、行き交う人々の影を長く引き延ばしていた。
鉄板で焼かれるソーセージ、鍋の中で沸き立つスープ。甘く香ばしい匂いをさせてガレットが焼かれ、屋台のあちこちから立ち上る湯気が、通り過ぎる者たちの熱と混ざり合っていく。
火曜日の市場は小規模だという情報をヴァルプスから得ていたレオンだったが、いざ足を踏み入れてみれば、その瞳に映る景色はどれも生者の営みを感じさせる輝きに満ちていた。
(まぶしい)
レオンは目を閉じると、極厚ダウンコートの胸元から手探りでサングラスを取り出して、その涼やかな目元を覆った。
「レオン。ショコラ・ショをお持ちしました」
ヴァルプスが人混みの向こうから、白い湯気を立てる二つの木のカップを携えて戻ってくる。手渡されたカップは木を薄く削って組まれたもので、差し出されたそれをレオンは慎重に受け取った。
カカオの香りに混じって、独特の酒の香りが鼻腔をくすぐる。剥き出しのままだったレオンの指先が、その熱を吸い上げるようにじんわりと解けていく。木のカップの構造や、カカオのルーツに思いを馳せながらヴァルプスを見上げると、彼は静かにレオンの動作を観察していた。
「ありがとう」
わずかな気まずさを感じながら、レオンはカップの縁に口をつける。ショコラ・ショはほどよい熱さでとても甘く、レオンは小さく笑った。
ヴァルプスが選んできた理由がわかる気がしたが、口には出さなかった。
しばらくの間、二人はとりとめのない会話をしながら市場を歩いた。
ときおり、調理器具や、保存食料の瓶が並ぶ店先でヴァルプスの歩みが遅くなる。レオンは青果の屋台で試食として渡されたまるごとの赤人参に歯を当て、その硬い繊維の咀嚼に奮闘していた。だが、ヴァルプスの行動パターンに気がついてからは人参への集中を切り替え、彼の行動を見つめることが新たなタスクに加わった。
黒のダウンジャケットから伸びた白い手が、音もなく食器を掴み、元の位置に戻される。蜂蜜の瓶が彼の手のひらに包まれ、やがて硬貨と紙袋へ変わる。
その動きを追ううちに、レオンはヴァルプスの腰に視線を落とした。
(……あくまのしっぽ)
すぐに、レオンは視線を地面に向ける。そこは、あまり見てはいけない体の部位のような気がした。
ヴァルプスは振り向くと、僅かに眉を上げて薄く笑った。
「ございましたか」
「……なに」
「ご質問です」
「……いや」
レオンは人参を片手に握りしめたまま、生真面目に答えた。いちど人参の先端に噛みつき、犬歯を食い込ませたあとで分断に諦めて口を離す。
逡巡の末、レオンはハンカチをポケットから取り出すと、人参を包もうとした。
トートバッグのなかで人参を眠らせる準備をしながら、レオンはぽつりと口を開く。
「……悪魔とは、価値がないという理由で断るものだったか」
レオンの眼の前に戻ってきたヴァルプスがその言葉を拾い上げる。
「……まあ事実とは異なる契約体系ですが、あえて訂正は致しません。
絵本一冊ごとに公式見解を出していたら、現世大使館の職員は過労で倒れてしまいますよ」
「つまり、君たちは価値がないとはあまり言わないのか」
「申しません。価値は、契約内容によって変動しますので」
レオンは動かしていた手を止め、躊躇いがちに口を開いた。
「……価値は、固定ではないのか」
「固定ではありません。
契約とは、双方の合意によって成立するものです。対価も、状況も、目的も変わります。
ですから、価値がないから契約しないという考え方は、悪魔にはありません」
「……」
「悪魔の契約は、もう少し複雑ですよ」
レオンは、歯型のついた人参を見下ろす。レオンの手のひら、その白いハンカチの上に置かれたそれはごろりと存在を主張していた。
「……そうか」
「制度について、一度きちんとご説明する機会が必要かもしれませんね」
「うん」
ヴァルプスは、自分の手荷物を足元の影のなかに落とし込む。空いた両手でレオンの手のひらにあるハンカチの端をつまみ、丁寧な動作で人参を包んでいった。
「あなたも、悪魔なのですから」
なんでもないように呟いて、ヴァルプスは目を伏せる。その言葉を聞いて、レオンは長耳をぴくりと震わせた。
「……そう。そういえばそうだったな。私は、まだ何も知らない」
「急ぐ話では、ありません」
レオンは頷いて、ハンカチに包まれた人参をトートバッグの隙間に差し込む。傷ひとつない一級品の革から、人参の葉が優雅に躍り出た。
満足そうに息を吐いたレオンにヴァルプスは目を細め、レオンが向けた視線と同じ景色を見つめた。




