『感情の添付ファイル(アタッチメント・ログ)』①
第1部:菫色のタイ
――冬の森に、菫の蕾を忍ばせたようだ。
レオンは初め、そう思った。
暗緑の上に紫のピンドットを散らしたタイが、朝日を受けて揺らめいている。
同じようなタイやスカーフをテントの梁に吊るしていた店主は、立ち止まったレオンの視線を追って小さく微笑んだ。
「お目が高いね。それは少し古い仕立てだが、良い生地を使っているんだ。触ってみてもいいよ」
「……ありがとう」
店主の促しに、レオンは礼を言って静かに皮の手袋を外した。そっと摘むと、布地は冷たく滑らかな感触を返してくる。
麻紐で留められた値札をめくり、レオンは動きを止める。毎朝、レオンのスーツの色合わせをしてくれる男は今、溶けたチーズの匂いに釣られて傍を離れている。
(ヴァルプスに、意見を聞くべきだろうか)
レオンは少し小首を傾げて視線を落とした。タイの端が風に揺れ、女店主の足元を指し示すようにそよいでいる。釣られるようにして、さらに低く落とした視線の先――冷たい石畳の上、荷解きされたばかりの古い木箱の隅に、それはあった。
泥の跳ね返りを浴びたような、ひどく色褪せた一冊の絵本。人の手に触れられ、時の波に摩耗したその表紙には、角と尻尾を生やした黒い小人が踊っている。レオンはゆっくりと膝を折り、石畳の上にしゃがみ込んだ。
(あくまのしっぽ)
タイトルに興味を惹かれ、レオンは目を細める。サファイアブルーのストールを引き下げ口もとを解放すると、店主に微笑んで見せる。
「この絵本、少し拝見しても?」
「もちろんどうぞ」
店主に了承を得てから、剥き出しの指先を古い紙の端にかける。
どんよりとした曇空を思わせる灰色の地に、殴り描きされたような黒い影たち。細いか太いかという極端な線だけで表現されたその世界は、あまりにシンプルで、だからこそレオンは注視した。
めくった頁のなかにあったのは、救いのない等価交換の顛末だった。
人間が悪魔を呼び出し、願いを叶えてもらう。やがて見返りが払えなくなると、悪魔は無慈悲に契約の終了を告げるのだ。人間は泣きながら、去りゆく悪魔の尾に縋りつく。けれど悪魔は「おまえにはもう価値がない」と一蹴し、去っていく。残された人間は途方に暮れ、やがて暗い海を見つめる――。
「お前の魂に価値はない、か……判断基準が曖昧だな。
この作者は、何を根拠に描いたんだろうか」
古い紙のざらついた冷たさを指先で確かめながら、レオンはいささか困惑し眉を顰めた。
せめて作者の名だけでも確かめようと表紙へと視線を戻した時、レオンの頭上から、不意に長い影が落ちた。
「面白いですね」
そんな言葉とともに、レオンの横にヴァルプスが滑り込むようにしてしゃがみこんだ。
「推測はできます」
薪火と香ばしいチーズ。その二つの匂いを微かにまとわせ、ヴァルプスが表紙を覗き込む。ふわりと、銀髪がレオンの肩に垂れ下がった。
「一つは宗教的教義を寓話として児童向けに再構成したもの。
一つは民間伝承の伝聞。あるいは、作者個人の経験や印象。
……悪魔と契約した人物がいたのであれば、その契約結果を誤認した可能性もあります」
抑揚のない声が、レオンの鼓膜を揺らす。
少し考える素振りを見せたあと、ヴァルプスは眼鏡のブリッジに指先を当てる。
「特定の教会による教化目的、という可能性も否定はできません」
「……ふむ」
「レオン。そちらは購入されるのですか」
「……いや」
「では、私が購入してもよろしいですか」
「かまわない」
レオンがヴァルプスに絵本を手渡すと、彼は店主に声をかけてあっさりと購入してしまった。
手元になにもなくなったレオンは、立ち上がる。風に揺れる暗緑のタイに眼を向け、手に取った。見つめているうちに、ヴァルプスがレオンの横に戻ってくる。
「ヴァルプス。そういえば、このタイなのだが」
「購入されるのですか」
「……君の意見を、聞こうと思っていた」
レオンはヴァルプスを見上げた。
ヴァルプスはレオンの首元と、レオンが握るタイに視線を走らせる。
「似合うと思いますよ」
「そうか」
レオンは改めてタイを見下ろした。
店主がテントの支柱に括り付けられていた鏡を指し示す。
「試着はいいのかい」
「いや、大丈夫です」
レオンは淡く微笑んだ。
「店主。このタイを、購入したい」
その言葉は端的で、決意に満ちたものだった。




