『脆殻の甘味領域(シュガー・プロテクト)』④
第4部:他者の領域侵入
スレイがハアハアと大きな胸板を上下させ、周囲の匂いを貪るように荒い息を吐き出しながら先頭を歩く。人間の何倍も鋭いその五感で、前方の脅威をいち早く察知するための、護衛としての完璧なフォーメーションだった。
爪音を立てて歩くスレイの尻尾と、たわむリードを追いかけながら、レオンは周囲に目を向けた。ところどころ白い湯気が浮き上がる街は、田舎の侘しさや寂しさを塗りつぶすかのように淡いパステルカラーの壁で統一されていた。庭先に咲く扁桃の白い花がはらりと舞い落ちる。その行方を追って後ろを振り向くと、ヴァルプスが音もなく歩いている。
レオンは少しだけ歩調を緩め、彼が隣に並ぶのを待ってから声をかけた。
「……ヴァルプス。陣形を崩してもいい?」
「かまいませんよ」
ヴァルプスの返答にレオンは僅かに頬を緩ませ、ヴァルプスと歩調を合わせた。
「……土産というものは思ったより難解だ。顧問は難しいが、叔父上はもっと難しい」
「オスカル卿にも、土産を?」
「……バルトロメからの課題なんだ。叔父上に渡さなくてもいいから、選んで買ってこいと。
あと……仕事をしたくなったときを記録しろとも言っていた」
「そうでしたか」
わずかに、ヴァルプスの声が低くなる。レオンは少し俯いてから、隣を歩くヴァルプスの足音を拾い上げることに集中した。
出会った頃から、ヴァルプスは冷静なようで、ちょっとしたことで傷つくような複雑な性格だった。
ふとした拍子にレオンよりも大きな身体に成長し、気がついたらビジネスを学んで柱のように立っていた。潤滑油を失い、ただ摩擦の軋みに耐えていたレオンの心を動かすきっかけもまた、彼の行動からだったように思う。
(いまの彼は、とても合理的でまっすぐだ)
そこまで考えて、レオンは知らずため息を吐いた。吐き出した息が白く濁る。
ダウンコートのポケットに右手をそっと差し入れる。指先に、包み紙の乾いた感触が触れた。手探りでそっと握り込み、表に出すとそれは薄紙に包まれた白い焼き菓子だった。スレイのためにと生ハムの大腿肉を買ったときに、オーナーからひとつ、もらったものだった。
山脈の雪のひとつぶを固めたような、真っ白で丸い雪片糖。外側のメレンゲは脆く、中には甘く濃厚な胡桃のクリームが隠されているという。その白さはどこか、隣を歩く男の頑なな横顔に似て見えた。
レオンはその包みを見下ろしたあと、前を向いた。
「……だが、私は。ヴァルプスのことなら、すこし説明できるかもしれない」
「え?」
「君は甘いものが、好きだろう」
レオンは歩きながら、記憶のままに口を開く。
「それから……好きなものはいちばん最後に食べる。機嫌がいいと角が艶めいていて、私はそれがとても」
――そこまで口にして、レオンは得体のしれない感情に眉を寄せた。それはレオン自身の柔らかい部分を、自らゆっくりと踏みしめたような、不快感にも似た感情であった。
無意識に指先へ力を込めると、包み紙の中で雪片糖が小さく軋む。白く脆い外殻を指先で握り潰して、中の甘い中身を暴いてしまったかのような――そんな、他人の領域に踏み込みすぎたことへの、ひそかな恐れが胸を衝いた。
沈黙が、冬の冷気よりも重く二人の間に降りた。
ヴァルプスの歩調は乱れなかった。乱せなかった、と言う方が正しい。
彼はただ、レオンの言葉を無自覚な、ただの一般論として処理ルートへ誘導することに必死であった。
「……そうですか」
しばらくの間のあと、ヴァルプスの口から漏れたのは、ひどく平板で、凍りついたような声だった。それ以上、何も言わない。
肯定も否定もせず、ただレオンの言葉を躱すように、彼はほんのわずかに歩調を遅くした。
レオンは、自分の指先が雪片糖の脆い殻を完全に割ってしまわなかったことに、奇妙な安堵を覚えた。しばらく手のひらで転がしたあと、レオンはヴァルプスの眼の前に翳してみせた。
「これ。……あげる」
「これは」
「さっき店でもらった」
「あなたのぶんは」
「もちろん。ある」
レオンの返答をうけて、ヴァルプスは黙って菓子を受け取った。大きな手のひらに置かれたそれは、午後の光の中で、酷く白く浮き上がって見えた。
並んで伸びていたふたつの影が、静かに重なり、また離れた。
歩みの遅くなった二人を振り返り、スレイが小首を傾げながら振り向く。
「ワフン」
「……なんでもないよ」
「ワン!」
「そうだね。早く帰ろう」
レオンはスレイに柔らかく笑いかけ、その表情のまま、隣のヴァルプスを見上げた。
どこからか風の音が聞こえてきた。雪混じりの突風が、大地を舐めるように走り、白い花弁を巻き込んでいく。
レオンの黒髪にひとひらの花弁がしがみつくように埋もれ、やがて離れた。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




