『脆殻の甘味領域(シュガー・プロテクト)』③
第3部:臨時のお礼支給
十二時過ぎまでレオンとヴァルプスは店内を見て回ったあと、バルナザールへの土産はまたあとで探すことに決めた。
再び広場に出る。外は店に入るまえと変わらず冷え冷えとした風が吹いていたが、歩き回る人が増えていて活気に満ちていた。
店の外には小さなテーブルと椅子がいくつも並べられ、人々が小さな素焼きのカップを傾けていた。壁を見れば、白文字でメニューが記載された黒看板と『本日、試食会』のポスターが掲げられている。看板の左右には、ずんぐりとしたハムの大腿肉がいくつも吊るされ、風に揺れていた。
作業台には大量の生ハム、それから切り分けられたパンが積み上がっている。シェフに変身したオーナーが忙しなく料理を作る傍らで、彼のパートナーは整然と並ぶ素焼きのカップへ惜しみなく酒を注いでいた。
レオンは、興味を示していることを伝えるようにヴァルプスのダウンジャケットの袖を掴んだ。
ヴァルプスは耳元に仕込んだ小型通信機に指を滑らせ、通信の向こう側と短く言葉を交わした。護衛部隊からの返答を待つために数十秒の間を置いて、ヴァルプスはレオンに目配せを送った。
「すぐ戻る」
レオンはそれを機に、うきうきと人混みのなかに紛れ込む。ストールを顎の下まで下げ、並べられたいくつかのチーズを試食する。オーナーといくつか短い会話をしながらサラミの欠片を受け取ってにこにこと笑う。やがて薄切りの生ハムがたくさん挟まれた小ぶりな硬いパンを二つ紙に包んでもらい、金を支払う。次いで、オーナーから素焼きのカップを二つ受け取ると、それを指の間に器用に挟んだ。慎重に歩いて自分のもとへ戻ってくるその一連の動作を、ヴァルプスは油断なく見守っていた。
「酒の試飲を勧められたが断ってしまった。
代わりに珈琲があったから……つい、ふたつも買ってきてしまった。……パンも。
……君。おなか、すいてる?」
レオンは、ヴァルプスにパンの包みと珈琲を差し出す。
ヴァルプスはいちど瞬きをしたあと、手を伸ばした。
「空いています」
二人はスレイの待機しているベンチに向かう。座っていたはずのカイの姿は消えていて、ただスレイが石畳の上で寝そべっていた。大きな尻尾を揺らして二人の帰りを待っていたスレイは、レオンが声をかけると伏せていた顔を上げ、箒のようにぶんぶんと尻尾を振って起き上がる。
レオンはベンチの脚に結ばれていたリードをほどいて握り直す。そのうえで腰掛けると、スレイは安心したようにレオンの目の前にどさりと座り込んだ。
「なんだか、ベンチが温かいな」
「そういうものなのでしょう」
訝しむレオンを横目に、ヴァルプスはレオンの隣へ腰を下ろす。
気を取り直して、レオンはパンを噛みちぎった。香ばしい麦と、熟成された肉の匂いが鼻腔をくすぐる。口の中に広がる塩気に気を良くしたレオンは、そのまま食事に没頭する。
周囲の人々の視線は、そんな彼等よりもスレイへと注がれていた。
「おい、あの犬でかいなあ」
「魔獣の血でも引いてるんじゃないか?」
ひそひそと交わされる品定めのような声が聴こえてくるが、スレイはどこ吹く風で聞き流す。
世界には、スレイが噛むのにちょうどいいものがいろいろある。例えば魔獣のあばら骨であったり、仕留めたばかりの獲物の後ろ脚であったり――あるいは、今まさにレオンがゆっくりと噛んでいる生ハムが挟まれたパンといったものだ。レオンたちが店にいる間の休憩時、別動班であるカイから食糧は与えられたものの、それはとても簡素な配給品で、満足できるものではなかった。
「クウン」
スレイが思わず鼻を鳴らす。スレイの熱烈な視線を受け止め、レオンは動きを止めた。
「……食べたいのか?」
「ワフ」
「……まあ、確かに」
「クウン」
「……気持ちはわかる」
「レオン。彼は任務中です」
ヴァルプスがスレイを一瞥する。
レオンは多少の後ろめたさを感じながらもパンの最後のひと欠片を口へ運び、珈琲を飲み干す。革手袋のままで几帳面に包み紙を四つ折りにしていると、ヴァルプスがそれをつまみ上げそのまま立ち上がった。ものも言わず素焼きのカップを店に戻しに行くその後姿をみやりながら、レオンはふう、と息を吐いた。白い息が上がる。
レオンは手袋を外してポケットに突っ込み、トートバッグから旅のしおりを取り出した。
頁をめくる。最後尾の余白には簡単な土産関連の殴り書きが残されている。
バルナザールへの土産は、方向性はわかった気がしていた。これはいずれ選べるだろう、と確信する。しかし、オスカルへの土産に考えが至ると、まるで目の前に壁が降ってきたかのように思考が停止する。
「……困ったな」
レオンは顎を親指の腹で撫でたあと、スレイを見つめた。サングラスを外し、暫し考え込んでから、その大きな頭に話しかける。
「スレイ」
「ワン」
「土産とは何だ」
「?」
スレイが首を傾げたので、レオンは少し考えてから立ち上がる。
レオンが目線を合わせるように石畳へ腰を下ろすと、目の前を遮るようにして、ダークグレーの巨大な像がそびえ立った。スレイが座ったままで前傾姿勢になり、人間の顔ほどもある大きな頭部をレオンの胸元へと突き出してきたのだ。太いマズルがレオンの肩に触れ、ふわりと雪と野生の匂いが混ざったような毛皮の香りが鼻腔をくすぐる。
「ワン」
スレイは短い鼻鳴らしを上げながら、大きな耳をパタパタと前後に寝かせた。レオンの問いの意味を、その灰色の瞳で懸命に測ろうとしているようだった。
「……ワフン」
「ほう」
「ワン」
「どういうことだ」
「ワン!」
「説明に、なっていない」
「……クウン」
「なぜ、肉なのだ」
「ワフン!」
「肉だから、嬉しいのか?」
「アオン!」
「……なるほど。参考になった」
「なるほどでは、ありません」
ヴァルプスの眼の前には、大型犬の前で膝をつき、真剣な顔で話しかけるレオンが映っていた。客観的に見て、かなり奇妙な、そして少しばかり恐ろしい光景だった。
レオンは、スレイの太い首周りの毛皮を両手で優しく撫でながら、眼の前に立つヴァルプスを見上げた。
「ヴァルプス。顧問への、土産候補が浮かんだぞ」
「なんですか」
「骨付き肉だ」
「却下ですね」
議論の余地すら与えない、冷ややかな一言だった。レオンは真剣な面持ちのまま、旅のしおりに挟み込んでいたペンを手に持つ。ベンチを机のかわりにして、旅のしおりの余白に『ほねつきにく』と殴り書きした。
「……そうだ。干し肉ならどうだ。長期保存がきく」
「肉から離れてください。なぜさっきから、スレイを基準に顧問への土産を選ぼうとしているんですか」
「スレイを、信頼している」
「信頼の方向性を、間違えています」
ヴァルプスは、スレイの尻尾が一振りされるたびに石畳が磨かれていく様子を見つめ、軽く眉根を寄せた。銀縁眼鏡の奥で、赤い目が据わってきたのを察し、レオンは苦笑する。
「……ちょっと待ってて」
レオンは閃きをそのままに、胸元に大きな頭を押し付けてくるスレイを優しく押し戻して立ち上がった。ヴァルプスの呆れの矛先から、さりげなく部下を逃がしてやるような、静かな押し戻し方だった。
レオンはもういちど店先に寄ると、オーナーに話しかける。やがて、ひとかかえもある生ハムの大腿肉を両腕に抱え、彼の広い胸元をすっぽりと隠すようにして戻ってきた。
「土産相談のお礼に、君にあげよう。食べきれないなら部隊のみんなで分けるといい」
レオンから巨大な肉塊を差し出された瞬間、スレイの丸い目がこれ以上ないほど見開かれた。ヴァルプスへの恐怖はどこかへ吹き飛び、喉の奥から情けない歓喜の鳴き声が漏れる。
雲の上の存在であるCEOからの、あまりにも破格のご褒美。スレイはレオンに対して完全に尻尾を振り、それから隣にいる直属のボスであるヴァルプスの顔を「もらっていいですか!?」と言わんばかりの必死の目で見つめた。
「ヴァルプス。こういった支給は、だめだっただろうか」
レオンの気まぐれな甘やかしと、大型犬そのものの目で自分を仰ぎ見てくる部下の視線に、ヴァルプスは盛大なため息をひとつ溢した。レオンの決定に異を唱えるつもりはないが、この忠実すぎる部下の「お預け」を解いてやれるのは自分だけだ。
「……問題ありません。スレイ、レオンからの直々の褒美です。ありがたく受け取りなさい」
「ワオン!」
スレイは大きく鳴くと口を開け、目の前の肉塊にそのまま食らいつこうとした。野生の狼さながら、自らの牙で誇らしげに戦利品を運ぶつもりのようだ。
ヴァルプスはやれやれと肩をすくめると、スレイの頭を軽く小突いた。
「待ちなさい。街中でそれを咥えて歩く気ですか。規律を乱すな。……レオン、そちらは一度、私が預かります」
「わかった」
ヴァルプスが手をかざすと、足元の影が微かに蠢き、生ハムの大腿肉をするりと飲み込んで消し去った。スレイは肩を落とし、ヴァルプスの影を寂しそうに見つめている。
その様子をみて、レオンはそっとスレイの頭を撫でてやった。




