『脆殻の甘味領域(シュガー・プロテクト)』②
第2部:顧客の嗜好リサーチ
午前十時。
まだ早すぎたのか、大通りは人通りもまばらだった。それでも、石畳を歩く人々は白い息を吐きながら静かにさざめいている。そのなかには、大柄なマウンテンドッグを連れている者もいた。だが、レオンたちの傍らを歩くスレイの存在感は、それらのどれとも規格が異なっていた。その巨躯が動くたび、周囲の観光客が静かに道をあける。
「……ヴァルプス。いまさらだが、スレイは目立つのではないか」
「湖畔警備においては妥当な選択でした。
しかしこの温泉街の歩行者エリアにおける大型ペットの同伴規定に照らし合わせるなら、路上待機が妥当でしょうね」
ヴァルプスはそう言って、広場の片隅にある頑丈な木製のベンチを指差した。
「いちど、あちらでスレイを待機させましょう。……カイ」
ヴァルプスが呼びかけると同時に、ヴァルプスの背後に男が立った。
カイはちらりとスレイに視線を向けたあと、レオンとヴァルプスを追い抜くようにして、さりげない動作でそのベンチへと腰を下ろした。その片手には、近くのスタンドで調達したばかりの、湯気を立てる珈琲と、紙に包まれた砂糖がけのクレープがある。どこからどう見ても、山の寒さを楽しむ無害な青年観光客そのものの擬装だった。
それを見届けたレオンはいちどスレイを見下ろしたあと、両手を伸ばして首元を整えてやる。サファイアブルーのスカーフに縫い込まれていた子供受けしそうな狼の顔のワッペンに気がつくと、レオンは小さく笑った。
「スレイ、ここでステイだよ」
レオンが静かに命じると、スレイは短く鳴いて、大きな尾を一度だけ揺らしてカイが据わったベンチの横にどっしりと腰を下ろした。巨躯が静然と広場に佇む姿は、それだけで温泉街の新たなランドマークのようでもある。
「レオン」
呼ばれて見上げたレオンの首元へ、ヴァルプスはそっと両手を伸ばした。静かにストールの形を整え、隠蔽魔法が万全であることを確かめてから、ようやく自身の身なりへと視線を落とす。
懸念をクリアした二人は、広場に面した目的の店へと視線を向けた。
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鮮やかな赤い扉を押し開けると、カランと古風な鈴の音が響き、凝縮された山の香りが二人を迎え入れた。
岩塩や香草、そして熟成された獣脂が混ざり合う、濃厚で調和の取れた匂いだ。暖かな店内には、周辺の独立系生産者たちが丹精込めて作り上げたプロダクトが、驚くほどの密度で整然と陳列されていた。
天井の木梁から幾何学的なオブジェのように吊り下げられた生ハムの大腿肉。壁際の棚には、蜂蜜やクラフトビール、地元のワインが完璧なグリッド状に整列している。観光客を誘惑するための過剰なポップはなく、そこにあるのは徹底的な品質管理と本物が持つ無言の説得力だけだった。
「……驚くほど整理された店内だな。陳列の規則性を見るだけで、管理者の有能さが伝わってくる」
レオンは長耳をわずかに揺らしながら、天井から吊るされた生ハムの大腿肉へと視線を向ける。
「同感です。不純なマージンを感じさせない、極めて誠実な空間ですね」
ヴァルプスは眼鏡の奥の目を細め、静かに店内を見回した。
「……ヴァルプス。顧問へのお土産用に、何か思いつくものはあるか?」
不意の問いかけに、ヴァルプスはすぐには言葉を返さなかった。
眼鏡のブリッジを指先でわずかに押し上げ、いつもの事務的なトーンで、思いつく名詞を並べる。
「……あの方の嗜好は。ワイン、あるいは葉巻。この地域のものなら、実用性を兼ねてアンティークな時計なども選択肢に入るかと」
「それは、顧問の趣味だろう」
レオンは、生ハムの大腿肉から視線を外さずに言った。
「そうではなく、あの人の……最適解だ」
「……」
今度こそ、ヴァルプスの言葉が詰まった。
バルナザールつきの秘書から回ってくる報告書、執務室の飾り棚に並ぶ一級品のコレクションという近況データ。そして、悪魔界・魔王本社にてバルナザールに仕えていた頃に蓄積してきた、彼に関する膨大なデータはヴァルプスにはあった。けれども、バルナザールが何を貰ったら喜ぶか、などという、内側の領域に踏み込んだ計算を考えたくはなかった。
(好きなものは、知っている。けれど――)
「……ヴァルプス?」
沈黙を訝しんだレオンが、不思議そうにこちらを振り返る。サングラス越しに見上げてくるその澄んだ瞳を、ヴァルプスは凝視した。
(あなたが適当に拾った石でも、あなたからの贈り物なら、きっと彼は喜ぶ)
――だが、そんな言葉は絶対に口にしない。
ヴァルプスは、ぐ、と両手の拳に力を込めた。
「わかりません」
視線を落とさないまま、静かに、しかし明確に答えた。それきり、ヴァルプスは口を閉ざした。眼鏡の奥の瞳には、感情の読めない赤い光だけが宿っている。
「そうか」
レオンはサングラスの奥の目を瞬かせると、そのままふらりと、酒瓶が並ぶ棚の隅へと歩いていった。
天井から、地元の子供たちが合唱しているような、妙に耳に残るテンポの「晶嵐山脈の賛歌」が流れる。のどかなBGMは、二人の沈黙を混ぜっ返すように響いた。
やがてレオンが足を止めたのは、観光客向けのワインコーナーだった。
「……ヴァルプス。これは……どうかな?」
真面目な顔でワイン瓶を手に取るレオンを見て、ヴァルプスは眼鏡の奥の目をわずかに引きつらせた。レオンはさらに、同じ文面が記載されたシャツを見つけて手に取る。ヴァルプスが眉を寄せてあたりを見回すと、そこは「I ♡ 晶嵐山脈」の文字列が印字されたアイテムが並ぶ、観光客向けの特設コーナーのようであった。
「レオン。まさかとは思いますが、それを顧問への贈り物に?」
「いや……ただ単に、一つのアイテムを起点に、周囲の環境すべてを同一の調和で統一したくなるという、極めて古典的な心理トラップに私が引っかかっているだけだ」
レオンはそう言いながら、眼の前に広がる雑貨と食器の並びに視線を走らせた。手ばかり動かして、いっこうに動かない。
大真面目な顔でコンプリート欲に支配されかけている主を見て、ヴァルプスはついに深いため息を吐いた。ぐっと握りしめていた両手の拳は、いつの間にか綺麗に解けている。
「棚の奥に、同じワイナリーが限定生産している銘柄がございます。
顧問向けでしたら、そちらも見てみるのも手かと」
ヴァルプスはそう言って、レオンを促すように店の奥に歩き出した。
「そうしよう」
レオンは頷く。しかし、歩き出そうとしていちど足を止めた。
壁にかけてあった姿見を目に留めるとゆっくりと胸にシャツをあてた。
胸を張り、レオンはサイズ感を確認する。胸元に大きく印字された文字列をみて、レオンは眉を上げた。
「……悪くないな」
レオンは小さく笑って、そっとシャツを腕のなかに招き入れた。




