『脆殻の甘味領域(シュガー・プロテクト)』①
第1部:日常の監査報告
xxx6年 2月15日(日)
本日分のインシデントおよびリソース消費の記録を残しておく。
【07:15】起床
ヴァルプスの発声における音圧が通常値より2.4dB低く、角に翳り有り。
明らかな睡眠不足の兆候を確認。
【11:15】街のカフェにて栄養摂取
ヴァルプス注視。前日の観光による疲労を疑ったが、本人より「少々、考え事を」との供述あり。
これ以上の追及はプライバシー権への侵害(=長期的リスク)と判断し、クローズとした。
【12:00】晶嵐公園の視界および動線検証
連邦憲兵隊の騎馬警備を確認。我が社へ軍馬を導入した際の減価償却費および維持コストを試算していたところ、観光客と誤認され、連邦憲兵隊及び馬と記念撮影。
試算用手帳はヴァルプスに物理的に没収された。
休め、とのことだが、思考の停止方法が不明である。
公園入口に氷菓子店があり、そこで栄養摂取。
……白雪バニラを選択。美味。定休日は月曜と火曜。
【14:20】工芸店における市場価値リサーチ
叔父上への贈答品候補を三点選定。しかし叔父上の好むデザインに関する定量データが不足しており、選定の妥当性を説明できない。
納得のいく購入の根拠が得られず、作業は難航している。
【15:00】仮眠
ヴァルプスの体調を考慮し、当初の予定をキャンセル。休憩。
【21:00】マルヴェイへ、ホテル内壁面の菊石の画像データを送信
「で?」との返答あり。評価値はゼロ。
結論:「見せたいもの」と「報告すべきもの」の区別が、いまだ理解できない。
【備考】
ARJB.F:11,625魔貨(前日比 -1.15%)
◆
昨夜書いた記録を読み返し、画面を閉じようとした瞬間――腕をぐいっと引かれ、足が止まった。
サングラス越しに、端末から視線を外す。サファイアブルーのリードを咥えた大型犬が、小首を傾げながら地面に爪を立てていた。
「……スレイ。どうした」
「ワフ」
「……ふむ。なるほど」
レオンの独り言のような呟きに、並んで歩いていたヴァルプスが眉をひそめた。
「なにがですか?」
「私が転倒すると、考えているらしい」
ヴァルプスが目を細め、レオンの足元を見た。
「歩きながらの端末操作は、推奨されません」
レオンはスレイを見る。
「私は、そんなに危なかったか」
「ワフ」
「かなり、危なかったらしい」
「そこまで分かるんですか」
「なんとなく」
レオンが端末をポケットに収め、ようやく顔を上げる。
そこには晶嵐山脈の冬が育んだ圧倒的な絶景が広がっていた。
吸い込まれそうなほどの澄み切った青空と、遙か遠くの真っ白な雪山を鏡のように映し出す、深い紺碧の湖。レオンたちの足元を囲むのは、葉を落とした冬枯れの寒々とした森と、剥き出しの茶色い岩肌だけだ。
しかし、その中央に湛えられた湖水は、冬の減水期であるはずなのに、あらかじめ用意された器のように、なみなみと溢れそうに深かった。凍てつく寒気と、湖底から湧き上がる地熱のせいで、エメラルドグリーンの水面からは凄まじい量の白い湯気が沸き立っている。
視界を遮る真っ白なヴェールの向こうから、岸辺の泥を蹴って、ひとつの石階段が伸びていた。雪のない地面から始まったその階段は、温かい湯気の奥へと進み、そして何のためらいもなく、底の知れない深い水の中へと沈んでいた。
「レオン。こちらへ」
並んで歩いていたヴァルプスが、黒いタクティカルグローブに覆われた手を迷いなく突き出した。湖畔に設置された木製のベンチに積もる粉雪を、機能美の塊のような手際で一瞬にして払い落とした。その鋭い双眸は、手元を一切見ることなく周囲の警戒に向けられたままだ。
座面の安全と乾燥を完璧に定義したその空間へ、レオンはアッシュグレーの極厚ダウンを揺らして静かに腰を下ろす。
すかさずスレイが、レオンの右隣、ベンチのすぐ脇へと滑り込むように腰を下ろした。伏せをしていても、ダークグレーの硬質な毛並みに覆われた背中はレオンの腰の高さを優に超えている。鼻先から尻尾まで二メートルを超えるその質量は、犬というよりもはや一頭の獰猛な肉食獣のそれだった。しかしスレイは、自身の巨体が放つ威圧感を隠すように、大きな頭をレオンの膝の上へと静かに預けた。
「クゥン」
甘えるような鼻鳴らしとは裏腹に、その体躯は周囲の冬枯れた森や、湯気立つ湖の階段の先をいつでも迎撃できるよう、完璧な戦闘配備の密度を保っている。レオンはサングラスの奥の目を細め、膝の上の分厚い毛並みへ、手袋越しにぽんと手を置いた。
「……つい、触ってしまった」
「規則通りですので、問題はありません」
「そうか」
少しの間を置いて、レオンはスレイの顔を覗き込む。
「本物の、犬みたいだ」
「彼は狼族です」
「ワフ」
「付け加えるならばスレイ。カモフラージュであるにせよ、レオンへの不必要な接近は規律違反です」
「クゥン」
「私は、かまわない」
レオンは少し微笑んで、ヴァルプスを見上げる。ヴァルプスはやや憮然とした顔で、その引き締まった体躯を包む漆黒のダウンジャケットを軋ませ、ようやくレオンの左に腰を下ろした。
レオンの言葉を最後に、即席の陣形は一時的な静寂に包まれた。
耳を刺すような冷気が、三人の間にじわりと割り込んでいく。笑わないヴァルプスも、犬のフリをしたスレイも、それ以上喋らなかった。
三人の視線は、自然とひとつの場所――エメラルドグリーンの水面へと吸い込まれていく、あの石階段へと収束していく。
沸き立つ白い湯気のカーテンは、まるで生き物のように形を変えながら、階段の境界線を執拗に隠し続けている。
冬枯れの静かな湖畔で、沸き立つ熱と沈黙する階段だけが、彼らをじっと誘っていた。
レオンはポケットから端末を取り出し、いちどサングラスを外して、一枚だけ撮影ボタンを押した。
「……不思議だな」
「ただの、階段でしょう」
「ワフ」
レオンの膝に頭を乗せたスレイの耳だけが、湯気の奥から聞こえる微かな水の爆ぜる音を捉えようと、ピクリと後ろへ向けられる。
レオンは、無意識にスレイの頭部をそっと撫でる。
スレイは嬉しそうに目を細め、耳をぐっと後ろに伏せてレオンの手に頭を押し付けた。しかし、隣のヴァルプスから冷ややかな気配を感じ取ったのか、片方の耳だけを横へ開いた。
「ヴァルプス。……昨日は、眠れた?」
ゆるやかな冷たい風に静かな声を重ね、レオンはヴァルプスに視線を投げた。
「はい」
「そうか」
ヴァルプスはわずかにレオンから視線を外した。漆黒のダウンジャケットの奥で、その引き締まった体躯が一瞬だけ硬く強張る。しかし、それすらもレオンへの防衛線であるかのように、彼はすぐに、張り詰めていた肩の力をほんの少しだけ抜いた。それを、レオンは見逃さなかった。言葉を繋げるか逡巡しながら、レオンはスレイの頭部を撫でる。
──ヴァルプスの端末が、小さく、しかし聞き紛れようのない識別コードのアラームを鳴らした。
本社からの、最優先ラインからの着信を告げる特殊な電子音だ。
「失礼します」
ヴァルプスはなんでもないような素振りで端末をポケットから取り出し、画面を開く。
◆
件名:【共有】バルナザール特別顧問からの問い合わせについて(CEO冬期休暇関連)
ヴァルプス殿
お疲れ様です。秘書室緊急連絡用ラインです。
本日9:04、CEO特別顧問のバルナザール殿より、CEOの冬期休暇および今朝の「AI自動配信サマリー」に関する事実確認の問い合わせがございました。
本件につきましては、秘書室より以下の通り回答し、対応を完了しております。
回答内容:当該休暇は昨年末の定例会議にて承認済みの正式なものである点、およびCEOご本人の事前同意を得ている旨を説明。
相手方の状況:顧問は今回のシステム遮断について事前に把握されていなかった模様なお、本日より秘書室はB班のみの縮退体制となっております。取り急ぎ、事実関係のご報告まで。
◆
ヴァルプスが無表情で見下ろす中、再び端末が別の類のアラームを鳴らした。
ヴァルプスは少し目を細め、それから指先を動かす。
◆
件名:確認
ヴァルプス。
今朝の自動通知について、秘書室より説明を受けた。
昨年末から計画されていた正式な休暇措置であり、レオンくん本人の同意も得ているとのこと。
そこに異論はない。
十二日の彼を見た私でも、休養の必要性までは否定できん。
だが、一つだけ聞こう。君はいつ私に知らせるつもりだったのかね。
私は現世企業の顧問である以前に、君たちの契約の承認者だ。
少なくとも十六日のAI通知より前に、一報くらいあっても良かったと思うのだが。
……もっとも。
君が私に知らせなかった理由については、おおよその見当がついている。
返答を待つ。
バルナザール
◆
──『君が私に知らせなかった理由については、おおよその見当がついている』
その一文を目にした瞬間、ヴァルプスの長い指先が、端末の表示面の上でかすかに凍りついたように止まった。
バルナザールのすべてを見透かしたような不敵な笑みが、脳裏をよぎる。
(このひとに、バカンス計画を隠していたのはレオンを騙したかったからではない。
レオンの休暇を、成立させるため)
喉の奥へ呑み込んだはずの熱が、今度は不快な警告音となって胸の奥で静かに跳ね上がった。
「……ヴァルプス?」
隣からかけられたレオンの静かな声に、ヴァルプスはゆっくりと目を閉じる。
「なにかあったのか」
「予想通りです」
「?」
「顧問です」
レオンは、スレイを頬を撫でる両手の動きを止めた。
「……そのメール、見てもいいか」
「どうぞ。事前にお伝えしておきますと、彼は怒っていません」
レオンはヴァルプスから端末を預かると、画面に視線を走らせる。しばらく読み込んだあと、小さく吐息を漏らした。
「……なるほど。顧問らしいな。確かに、事前連絡はしていない」
レオンはバルナザールが監査承認者であるという部分だけを拾い上げ、肩を落とす。長耳が僅かに下がった。
「失礼だったかな。二日にでも、謝罪のメールを打とう」
「そこじゃないんですが……」
ヴァルプスはレオンから端末を受け取り、呆れたようにレオンを見下ろす。レオンは真顔で顎に手を当てて目を閉じたあと、浮かんだ閃きをそのままにヴァルプスを見上げた。
「ヴァルプス。顧問に土産、はどうだろう?」
「いい案だとは、思います」
ヴァルプスの言葉に、レオンは安堵したように頷いた。
「よし、では帰るか」
「ワフン」
スレイが立ち上がり、大きな尾をくゆらせる。それにあわせたようにレオンとヴァルプスは立ち上がった。




