『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』⑨
第9部:情動の非揮発性ログ
ふと意識が浮上したとき、視界に飛び込んできたのは、深い闇と、魔導暖炉の名残である微かな夕日色の残光だった。
部屋全体の明かりは完全に落とされ、カーテンの隙間から冷たい月光が静かに差し込んでいる。そして、隣には、圧倒的な質量があった。
レオンが寝返りを打とうとした瞬間、自身の肩にわずかな拘束感があることに気づく。寝ぼけ眼で視線を走らせると、白い腕がそこにはあった。
(……ヴァルプスか)
いつの間に湯から上がり、この寝台へ滑り込んできたのだろう。
ヴァルプスは自らの腕を枕としてレオンを抱き込んでいた。レオンの項から、トントン、と規則正しい、微弱な魔力の波紋が伝わってくる。
契約上、必要な管理工程である。そう自分に言い聞かせ、再び瞼を閉じかけ──ふと、その動きが止まった。
視線だけを動かす。
(……羽根)
ヴァルプスは美しい大理石の彫像のように完璧な姿勢で、仰向けに眠っていた。これでは、今日疑問に至った背中の構造を検証することは不可能だ。
(……だめか。
横向きになれば見えるかもしれないが……起こすのもな。
羽根の検証はまた今度だな)
レオンは諦めた。代わりに、月光に照らされた彼の額へと視線を移す。そこには、日中の間、ストールに刻まれた隠蔽魔法で隠されていた一対の黒い角が剥き出しになっている。
ぼんやりと、その角を眺める。しばらくの間を置いて、レオンはゆっくりと上半身を起した。
(背中が見れないのなら、せめて)
寝台をよく見れば、ヘッドボードがない。ヴァルプスは一見不自然な形状をした、特注の黒い枕に頭を乗せて眠っていた。
(なるほど……これが、破損保障の対象か。
確かに、この重量と密度で壁を擦られては、ホテル側も困るだろうな)
レオンは左手を浮かせ、空中でその黒い角の曲線をなぞるように動かした。
月光を受け、鈍い光沢を放つ表面は滑らかだ。刻まれたわずかな節さえも、まるで計算された工芸品のように、その強靭さを引き立てている。先端へと流れる曲線には乱れがない。表面状態、密度、造形。どこを見ても一切の隙がなかった。
(いつ見ても、いいものだ)
ほう、とレオンは静かに息を吐いた。脳裏に過るのは、出会ったばかりの、まだ小さかった頃の彼の姿だ。
「……本当に、立派になったよな」
レオンの喉から、声音が微かに振動となって滑り落ちる。それは意図せずに、ヴァルプスの耳元を甘く擽るような言葉となった。
観察を一通り終え、満足したレオンは再びヴァルプスの腕へと頭を寄せた。
「おやすみ、ヴァルプス」
レオンはそのまま目を閉じ、すぐに深い眠りへと落ちていった。
──入れ違いのように。
ヴァルプスの右手の指先に、ピクリ、と微かな力がこもる。
レオンの呼吸が完全に穏やかになったのを見届けた闇の中で、ヴァルプスは薄く、赤い目を開いた。
レオンは、きっと朝になれば何も覚えていないのだろう。いや、覚えている必要すらないのだと、彼はいつもの冷静さで切り捨てるに違いない。
それでも、かまわなかった。
(――問題は、私が覚えてしまったことだ)
腕の中に収まる重みと、耳元に残る、鼓膜を震わせた声音。
どこからか、甘い香りがする。だがその原因を探す気にはなれなかった。
顔に集まる熱だけが、どうしても静まらない。
ヴァルプスは不動のまま、溢れそうになる熱い吐息を喉の奥へ呑み込んで、もう一度目を閉じた。
──結局、ヴァルプスはそのまま朝まで一睡もできなかった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録のアーカイブ版です。




