『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』⑧
第8部:無制限の強制冷却
夕食を終え、食器が下げられた頃、ヴァルプスは手元の時計に視線を落とした。
部屋にはまだ、メインディッシュに使われていた鴨のローストや赤ワイン、そしてほの甘い羊乳チーズの贅沢な残り香が微かに漂っている。
「レオン。私は、湯をいただいてきます」
「ああ」
ヴァルプスが着替えを手に取り、部屋の奥の湯殿へと向かう後ろ姿を、レオンは静かに見送った。
(……羽根)
ふと、湯殿の中で浮かんだ小さな疑問が再び脳裏を過ったが、レオンは小さく頭を振って思考を追い出した。
静かに夕日色の炎を揺らめかせる魔導暖炉の前を通り過ぎ、レオンはひとりタブレットを手に室内を歩き回る。あの、ペン一本すら残されていないシェーヌの執務机。その前に椅子を引き、薔薇の花びらが置かれた小皿の横に腰を据える。
湯上がり着のポケットから銀色の腕輪を取り出すと、右の手首に嵌めた。
ようやく呼吸がいつもの仕事のテンポを取り戻したのとほぼ同時に、手首の腕輪から二十一時を告げる微かなアラートが鳴った。
レオンが画面に触れると、通信の接続待機画面として、パステルカラーの背景のなかでのんびりと四足歩行の動物が寝そべる、酷くファンシーなドット絵が浮かび上がった。
レオンは小さく眉をひそめたが、直後、画面は彼が好む文字列だけの無骨なシステム画面へと切り替わる、
画面が明るくなり、暗号通信の確立を示すインジケーターが明滅する。次に現れたのは、こちらを覗き込む本社の最高情報セキュリティ責任者──マルヴェイだった。
『やあレオン。温泉谷は満喫しているかな』
「マルヴェイ、こんばんは。……では本日の定例報告を始めよう」
『現割当領域、およびセキュリティプロトコルに異常はない。問題は発生していない』
「……そうか」
短いやり取りですべてが終わってしまう。レオンは身じろぎをして、両手を机の上で組んだ。
「……他には」
『なにも』
「その。マルヴェイ、君は。よく休めたのか」
『うん。君がいないからね』
マルヴェイは意味深に微笑み、レオンを見つめた。
『今日は何か見つけたかい』
「……ああ。市場で嵐翠石という石を見た」
『ほう』
「……美しかった」
『写真は』
「ない」
『なぜ』
「……見ただけだ」
レオンは少し視線を落として答えた。
マルヴェイは少し怪訝な顔をしたあと、机に肘をついて自身の顎に指を当てる。
『次に何か面白いものを見つけたら、記録を残して』
「業務報告か?」
『違う』
「?」
『私が見たい』
「……そういうものなのか」
『そういうものだよ』
マルヴェイはレオンの瞳を見つめ、彼にしてはゆっくりと口を開いた。
『君の認識した世界の一部を、私のログにも保存しておきたい』
レオンはしばらくの間、その言葉を脳内で精緻に再計算するように、深く反芻する。
「……次から、撮影してみる」
マルヴェイは満足そうに目を細めた。
『では、本日の占有時間はここまでだ。……おやすみ、レオン』
「おやすみ」
レオンの返答と共に通信が切られる。
ふう、とレオンは息を吐く。本日の業務は終わった。執務机にタブレットを置いたまま、レオンは部屋の奇妙な広さを確かめるようにうろうろと歩き回る。
手持ち無沙汰な気分でホテルの案内パンフレットを手に取り、寝台にそっと仰向けになった。いちど両手を広げる。滑らかなシーツの上に投げ出した両手は、どれだけ伸ばしても冷ややかな空白にしか触れない。一人で占有するには、この寝台はあまりにも広すぎた。
「……『有角種族向け特化客室』、か。どうりで寝台の表面積が異常に広いわけだ」
ホテルの案内パンフレットを目で追いながら、ぽつりとひとりごちる。寝返りの際に角が干渉するのを防ぐ設計なのだろう。ヴァルプスがこれを選んだのは、自身の大きな角を収める空間としても最適だと再計算したからに違いない。
「耐衝撃・対魔術石材、破損保障……段階式スリット変形枕のレンタルに、角のお手入れ付き宿泊オプションもあるのか。これはすごい。
有角族の心理を突いた、実に見事なビジネスモデルだな」
レオンはついつい、現地のニッチな宿泊産業の収益構造へと思考を巡らせる。
「――一級角研磨技能士、か。
実力派の職人を囲い込むとは、このホテルの支配人もなかなかやり手らしい」
パンフレットに躍るその資格名に指先を滑らせ、レオンは口元を緩めた。
「……いいな、このホテル」
結論の出ない思考遊戯に身を委ねていると、ゆっくりと睡魔が襲ってくる。
いつしか、レオンは目を閉じて心地よい眠りに落ちていた。




