『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』⑦
第7部:氏名秘匿の隔離空間
レオンは小さく息を吐くと、巨大な寝台から立ち上がり、まずは部屋の全容を確かめるようにゆっくりと歩き出した。
長期滞在を前提とした部屋らしく、奥には大理石のカウンターを備えた簡易キッチンが見える。棚には上質な陶器のカップや、ハーブを淹れるための銀の小鍋が整然と並んでいた。
部屋の中央に歩みを進めると、壁の魔導暖炉が彼の気配を察して自動で起動し、パッと夕日色の火を灯した。
薪が心地よく爆ぜる音が響くが、煙も灰も一切ない。じわりと広がるぬくもりを感じながら、レオンは絨毯を踏みしめる。
ふと部屋の片隅にある重厚なシェーヌの執務机へと視線を向け、レオンは怪訝そうに眉をひそめた。
仕事人間のレオンが真っ先に確認するべき場所であったが、ヴァルプスの徹底した手回しのせいか、さきほどヴァルプスが回収したのか、ペンや紙の類が一切置かれていなかった。ただ小さな陶器の皿の上に、赤い薔薇の花びらが数枚置かれていた。
苦笑に近い息を吐きながら、レオンはクローゼットを開けた。
身体を締め付けていた上着を脱ぎ捨てる。衣服をすべて脱ぎ去った身体を長鏡に映せば、そこにある己の姿は、どこか薄汚れて見えた。
「……温泉」
ヴァルプスの言葉を思い出し、レオンは部屋の奥にあるテラス付きの湯殿へと足を向けた。
重い木の扉を開けた瞬間、白く柔らかな湯煙と、晶嵐山脈を優しく染める夕暮れの残光が彼を迎えた。
湯殿の床や浴槽には、この地の名産である大理石が贅沢にあしらわれていた。
湯気と共に立ち上るのは、微かな硫黄の香りと――テラスのすぐ横から優しく吹き込む、ほんのりと甘く芳しい扁桃の芳香だ。見上げれば、古木に咲いた白い花びらが、温泉の熱気に誘われ、湯煙のなかで白く煙るようにして溢れんばかりにほころんでいた。
レオンは風呂場でのいつもの癖で、シャワーに手をかける。備え付けのアメニティを手に取り、豊かな泡で髪と身体の汚れを洗い流したところで、この見慣れぬ巨大な温泉に入るべきか、と逡巡した。
「……ヴァルプス」
呟いてから、そんな自分をなじるように唇を引き結ぶ。
「いや。ひとりでも問題ない」
レオンは覚悟を決めるように小さく息を吸うと、静かに湯船へと身体を沈めた。
「っ……」
思わず、熱い吐息が唇から漏れる。
肌を灼くような熱さのあとにやってくる、じんわりとした痺れ。身体の芯まで染み入る湯の熱が、限界を迎えていた四肢の強張りをゆっくりと解きほぐしていく。
レオンはそっと目を閉じた。深く息を吐き出すたびに、凝り固まっていた重い疲労が、大理石の湯底へと溶けて消えていくようだった。
湯の中で、自分の両手がわずかに浮き上がるのを見つめる。
夕暮れの空を、仰ぐ。
過去に旅をした記憶は確かにあるはずなのに、いま思い出そうとするとどこまでも曖昧だ。
レオンは目を閉じ、ぼうっとした思考でその輪郭をまさぐる。
定住し、日常に縛られるだけで、これほどまでに脳の機能領野が書き換わってしまうものなのか。
いまや休暇を得てなお、旅の始め方を忘れてしまっている己が、レオンには不思議でならなかった。
(……そう。そうだった。ひとりで旅を続けると、見切りが早くなるんだ。
いつかなくなるものがあるから、そのために平気な顔をしなければならない。
どんなに好きでいても、それを所有し続けることはできないものがあるのだと)
普段なら「くだらない」と切り捨てるような妄想が、いくつも頭に浮かんでは、消えた。
蓋をしたはずの想いが、綻びから滲み出てくる。
(だからこそ、離れる前に出来るだけのことを──)
ふと、さっき口にした男の名が脳裏を過る。
足湯でみた筋肉質の白い足を思い出し、握った手の大きさを思い出し、レオンは自分の手のひらを見つめた。
(……ヴァルプスは、この熱い湯に大人しく浸かれるのだろうか。あの肌の耐久度はどれくらいなのだろう。
そういえば、あの大きな羽根をいつもどう隠しているのだ? ──羽根を洗っている姿を、見たことがないな。
そもそも、どういう原理で飛ぶのだ)
レオンは水面から右手を出し、指を軽くすぼめて、鳥が羽ばたくような様子を一人で実演してみた。ぱちゃぱちゃと、湯殿に水音が響く。
「……何を考えているんだ、私は」
自身が奇妙な疑問を抱いていることに気づき、レオンは呆れたように首を振った。
両手で黒髪をかき上げると、耳の上にある小さな角に指がひっかかる。
濡れた黒曜石のような滑らかさを持つその表面を、指の腹で自戒を込めるようにそっと撫で、彼は目を伏せた。
声にならない声が、喉奥で消える。
白い花びらが、ゆったりと眼の前を流れていく。レオンはその行く末を、ただ静かに見送っていた。




