『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』⑥
第6部:市場閉鎖の機会損失
ホテル『シャトー・ド・フォンテーヌ・ブルー』は、見事な青い屋根瓦を戴き、格調高い門構えで二人を出迎えた。
「こんにちは」
「お客様、お待ちしておりました。本日は遠路はるばる、長旅お疲れ様でございます」
ヴァルプスが代表して滑らかに応じ、レオンの代わりに視線でチェックインの完了を促した。
フロントの支配人は、ヴァルプスの傍らにいるレオンには一切の視線を向けない。ただ一礼し、ヴァルプスから提示された端末のコードを読み取る。
会社が代理執行した正規の監査・隔離手続きである以上、ホテルの台帳にはレオンの本名が刻まれている。しかし、ロビーに足を踏み入れた瞬間から、その名が呼ばれることはなかった。ヴァルプスが事前に端末を通じて、徹底した氏名秘匿をホテル側に要求していたからだ。
「――確認いたしました、最上階、角部屋のお客様。お部屋の準備はすべて整っております。
……ご安心ください、当ホテルの最上階は大変見晴らしが良く、どのようなお客様でも、羽や角を伸ばしてゆったりとお寛ぎいただける、当館で最もプライベートが守られた空間となっております」
「ありがとう。手配通りで助かるよ」
宿の支配人が先導し、静かな廊下を進んでいく。
レオンはヴァルプスに包み込まれた手の温もりだけを頼りに、一歩一歩、引きずられるようにして歩いた。その視界の端々に真紅の薔薇が差し込む。気になって視線を向けると、ロビーの柱という柱、果てはエレベーターのホールにまで過剰なほどに薔薇の花が飾り立てられていた。
案内された部屋は、驚くほど広々としていた。
大きな窓からは、先ほどまで二人がいた晶嵐山脈の雄大な山々が、夕暮れの柔らかい光に染まり始めているのが見える。魔晶平原で過ごしたあの眩しくも穏やかな時間、そして市場で見た結晶の輝きが、まるで夢の中の出来事のように感じられた。
目を閉じれば、不格好な石の鉢から立ち上る温泉の白い湯気と、その奥で光を吸い込んでいた淡い緑の残像が、今も優しく目蓋を焦がす。あのとき、なぜ迷わず手を伸ばさなかったのか。逃した輝きへの微かな熱が、胸の奥に燻っていた。
だが、郷愁に浸るレオンの思考は、室内の光景によって強制的に引き戻されることになる。
「……ヴァルプス。これは、何」
かすれた声でレオンが指し示した先――部屋の片隅に鎮座する豪奢で巨大な寝台の上には、真紅の薔薇の花びらが、歪みのない完璧なハート型を描いて敷き詰められていた。
それだけではない。サイドテーブルにはシャンパンクーラーで冷やされた最高級のウェルカムシャンパン、卓上に揺らめくアロマキャンドル、そして『愛を誓い合う特別なお客様へ』と金文字で刻まれたホテルからのメッセージカードが添えられている。部屋全体の照明も、意図的に薄暗くムードのある暖色系に落とされていた。
支配人が退室したのを見届けたヴァルプスは、表情ひとつ変えずにその光景を見つめ、淡々と端末を操作した。
「現世の記録を照合しました。本日二月一四日は、人間が『双愛節』と称し、互いの情動を煽るために薔薇や糖分を送り合う奇習の日であるようです」
「奇習……」
「ええ。ホテル側は、最上階のトップスイートを氏名秘匿で予約した我々を、外部に漏らせぬ関係だと誤認した可能性があります。
定款に基づく監査・隔離手続きとしては、文字通り不要な過剰サービスですね」
ヴァルプスはそう言い捨てると、迷いのない足取りで寝台へ近づいた。
有能な右腕たる悪魔の手によって、芸術的だった薔薇のハートマークは一瞬にして払い除けられ、ただの睡眠のための清潔なシーツへと戻される。
ヴァルプスは、舞い散る赤い花弁を細い鞭のような影で拾い上げていくと、寝台横のサイドテーブルの端にまとめあげた。
「ですが、薔薇の芳香成分には自律神経を整える効果があり、微弱なキャンドルの明かりは脳の強制冷却に最適です」
「そうか」
「なお、本日のメインダイニングは満員との連絡を受けていました。そのため、夕食はこの部屋へ届くよう手配してあります」
「そうか」
ヴァルプスがてきぱきと室内を確認していく様子を見つめながら、レオンはトートバッグから端末を探した。
双愛節というイベントの整合性を確かめるべくネットを検索し始め、途中で指を止める。いちど背後を振り返ったあと、自社の株価を検索した。
『ARJB.F:11,760魔貨(前日比 -0.34%)』
画面に表示された自社の株価は、昨日の天井値からわずかに火照りを冷ました程度で、ほぼ高値圏を維持していた。
市場はまだ、最高責任者が温泉街に隔離されていることなど微塵も気づいていない。
「昨日の市場上限値から、わずか1.52%の健全な調整です。株価は極めて安定しています」
気配もなく背後に立っていたヴァルプスの声に、レオンは肩を跳ね上げた。
レオンはゆっくりと端末を目についたテーブルに置くと、素知らぬ顔でダウンコートを脱いだ。ヴァルプスはレオンの手に掴まれたダウンコートを引き取り、代わりのようにホテルの案内パンフレットを手渡す。
「この客室には、二十四時間かけ流しの源泉を引いた、完全非公開のプライベートスパが併設されています。
他人の視線も、情報漏洩のリスクもゼロです」
「……部屋に、温泉があるのか」
「ええ。支配人の言葉通り、あなたがどれほど羽根を伸ばそうと、誰にも見咎められない空間です」
「私に、羽根はないが」
「比喩です」
「……わかった」
レオンは神妙に頷いた。生真面目にパンフレットを眺めはじめる。そんなレオンを一瞥したあと、ヴァルプスはしゃがみこんで床に落ちていた薔薇の花弁を丁寧に拾い上げていった。
「二十時には夕食が届きます。コースのように時間をかけるのは非効率ですので、全ての料理を一度に運ぶようホテルの厨房には調整をかけておきました」
「わかった」
頷きかけたレオンは、思い出したようにサングラスを外し、射るような強い光を宿した青い目でヴァルプスを見下ろす。
「……ヴァルプス。事前に約束した通り、二十一時には本社へのアクセスを許可してもらうぞ」
「ええ、定款に基づく特例措置として、二十一時から五分間のみ、あなたのアクセス制限を解除します」
「五分だったか?」
「マルヴェイさんからは、そのように連絡を頂いていますよ」
レオンは納得のいかない様子で眉を寄せた。だが、交渉を行う気力が残っていないのは、彼自身が一番よく知っていた。
「では、私はこれより護衛たちとの打ち合わせに向かいます」
床に落ちた最後の薔薇の花弁を拾い上げたあと、ヴァルプスは音もなく立ち上がった。手のひらに乗せた花弁を、そっと握りしめる。
「夕食が届く時間まで、まずはゆっくり休んでください。
冷蔵庫には備蓄として食料や飲料を入れていますが……くれぐれも、ひとりで料理に挑戦したりなさいませんよう」
「するわけがないだろう」
「なら良いのです。……なるべく早めに合流します」
ヴァルプスは一礼すると、今度こそ気配を消して部屋を退室した。
重厚な扉が静かに閉まる。
部屋には、柔らかな夕暮れの光とほのかな薔薇の残香、そしてレオンが取り残された。




