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『1魔貨の聖騎士 ― 自分を1魔貨と定めたCEOを、悪魔は契約で管理する』  作者: 暮夜すと
【シーズン3:Q1バカンス編】

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『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』⑤

第5部:位置情報の同期エラー(ロケーション・バグ)


 二人は魔晶高原ボナ・クリスタルエリアでの散策と軽い食事を終え、再び麓へと戻ってきた。

 ゴンドラを降りた頃には、時はすでに昼になっており、広場には強い西日が突き刺さるように差し込んでいる。

 朝の広場を包んでいた幻想的な霧は形を失い、冷たい風が川の湯気を引き裂くように巻き上げていた。活気にあふれた売り声の残響すらなく、ただ遠くの山肌から吹き下ろす風の音だけが、その場を支配していた。


「ヴァルプス。ちょっと寄りたい場所がある」


「どちらへですか」


市場マルシェだ」


 やっと履き慣れたと感じるマウンテンブーツで石畳を踏みしめ、レオンは今度こそ迷いのない足取りで広場の隅へと向かった。

 ダウンコートのポケットの中で、財布の感触を確かめる。財布にはまだ金が詰まっていた。あの底知れない緑の結晶をこの手にするために調整をして残していたぶん。


 広場の奥へと進むにつれ、レオンの眉がわずかに寄せられた。

 耳に届くのは、客を呼び込む快活な声ではない。木箱が重なり合うガタガタという無機質な音や、荷車を引く車輪の軋み。

 朝、鼻腔をくすぐった焦げたバターの甘い匂いは完全に霧散し、ただ冷たい風の匂いだけが鼻をかすめる。

 視界の先では、山の職人が無骨な木工品を次々と麻袋へ放り込み、天幕の紐を解いていた。他のスタンドも同様に、まるで夜逃げでもするかのような手際で店を畳み始めている。


(片付け……?

 まだ十三時を少し過ぎたばかりだぞ)


 レオンの胸に小さな、けれど無視できないざわめきが生まれた。

 無意識に歩幅が速くなる。自分の靴音が、静まり返っていく広場に妙に大きく響いた気がした。

 広場の最奥、あの毛皮の外套の男がいたはずの場所へと、レオンは視線を走らせる。


 ――そこには、何もなかった。

 男の姿はない。使い古された木箱も、そこから立ち上っていた白く温かい湯気も、すべてが最初から幻だったかのように消え失せている。あるのは、冷たい石畳の上に広がった、温もりを完全に失ったただの水たまりだけだった。傾いた強い西日が、その水面を容赦なくギラリと照らし出している。 

 

 レオンの足が、凍りついたように止まった。


「……レオン?」


 背後からかけられたヴァルプスの声が、鼓膜を素通りしていく。風が吹き抜け、レオンの足元を何かがカサリとかすめた。視線を落とすと、それはさっきまで木箱の上に置かれていた、あの引き裂かれた羊皮紙の屑だった。

『一万五千魔貨』。掠れた文字だけを残した紙切れが、冷たい風に煽られて虚しく地面を転がっていく。

 頭のてっぺんから、冷水を浴びせられたようだった。指先が急速に冷えていく。


「ヴァルプス。店がない」


 背後に佇むヴァルプスが、手持ちの端末に視線を落としたまま、静かに告げた。


「山の市場マルシェは、午前で閉まるのが鉄則のようです。午後になれば山特有の突風が吹きますから、店主たちは十三時には完全に荷をまとめます」


 ヴァルプスの言葉は、レオンの胸の奥に、冷酷なまでの事実を突き刺した。知らなかった。いや、調べることすらしていなかった。

 脳裏に、先ほどまでいた魔晶高原の、どこまでも澄んだ青空が蘇る。

 ヴァルプスと並んで風に吹かれ、穏やかに食事を楽しんだあの時間は、間違いなく本物で、何物にも代えがたい美しい記憶だった。あの時間を過ごしたことに、後悔は微塵もない。 だからこそ――なおさら、己の無様さが許せなかった。


 レオンは無意識のうちにストールの奥で唇を噛む。その瞬間、周囲の空気がぎりりと凝縮した。


 ヴァルプスの胸元にじわりと、濡れた布を押し当てられたような重苦しい負荷が押し寄せる。ヴァルプスは目を瞬かせた。


(……負荷が、来た。なにがあった?)


 ただならぬ魔力の揺らぎに、ヴァルプスは微動だにしないレオンの背中を見下ろしたあと、警戒するようにあたりへと視線を巡らせる。

 銀縁眼鏡のフレームに仕込んだ護衛緊急招集ボタンへ、いつでも親指をかけられるよう静かに手を上げた――その時だった。

 レオンが、ゆっくりと振り向いた。その青い瞳は昏く滲んでいる。


「……綺麗だった」


 喉の奥から絞り出されたのは、あまりにも削ぎ落とされた一言だった。

 ヴァルプスは動きを止め、レオンを見つめる。魔力の暴走でも、敵の奇襲でもない。レオンの心の揺らぎの正体は、彼がその身の内に押し込めた、あまりにも純粋で、あまりにも重い喪失感そのものだった。


「……そうですか」 


 ヴァルプスは上げた手を静かに下ろし、眼鏡の位置を直した。


「……そんなに、お気に召していたんですね」


 レオンは、小さく頷く。


「私には、ただの石にしか見えませんでしたが」


 ヴァルプスがそう言うと、レオンは目に見えてがくりと肩を落とした。長耳が下がる。

 ヴァルプスは少し眉を上げ、手早く端末の画面を叩くと、流れるような口調で言葉を続けた。


「ただ、あの手の露店なら、この先の別の街の市場マルシェにも出店している可能性があります。

 ここの市場管理局に問い合わせれば、あの男の出店許可証から、次の行き先や出店情報を追えるかもしれません。

 ……手配しますか?」


 完璧なフォローだった。レオンの損失を補填するための、最も合理的で迅速な代替案。しかし、レオンはゆるく首を振った。


「……いや、いい」


「レオン」 


「……調べるべきだったな」


 レオンは喉の奥に詰まった感情を押し殺すように、かすれた声で呟いた。鼻の奥をツンとさせる熱さに耐えるように、一度だけ強く瞬きをする。


「宿のチェックインは、できる?」


「問題ありません」


 即座に頷いたヴァルプスを、レオンは見上げる。


「では行こう」

 

 レオンはストールを鼻先まで引っ張り上げると、すがるようにヴァルプスのダウンジャケットの裾を掴み、深く俯いた。

 ヴァルプスはその頼りない手元を見下ろし、それから小さく息を吐く。そっとレオンの手を包み込むようにして繋ぎ直すと、どこか茫然自失のままのあるじを引いて、静かに宿への歩みを進めるのだった。

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