『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』④
第4部:排他条件の足湯
ヴァルプスが見守る中、レオンはゆるやかな斜面を五十メートルほど登る。滑走ルートと明確に分かたれているはずなのに、滑走者が雪を散らして横を通るたびにレオンは身構えた。鉄の塊ほどの重量がある人間が激突してきた場合のリスクを脳内で計算してから、足早に案内板の横に立つヴァルプスの元へと戻る。
足元のおぼつかないレオンの前にヴァルプスが手を差し出すと、レオンはその手を強く握った。
すれ違うカラフルなウェアを着た観光客たちが、一瞬、彼らの前で歩調を緩める。それは案内板の文字を確認するためでもあり、あるいは、その横に佇む男たちの姿が異質だったせいかもしれない。ファッション誌のグラビアから抜け出してきたかのような洗練されたオーラは、白銀の地においてはいささか浮いていた。
「ヴァルプス、上に向かうリフトはここから近いのか」
「ええ。八分ほど歩くようですが」
ヴァルプスに誘導されながら、レオンは歩く。
魔法結晶の光を模したカラフルな看板と、様々な案内板。レストランのバルコニーでは酒を酌み交わす観光客の笑い声が響いている。
リフトに近づくにつれ、思ったよりも俗物的な風景が広がり、レオンはきょろきょろとあたりを見回した。
土産物屋に視線を止めたところで、頭上からプツ、と不協和音が響く。
『――警告。上部リフト、強風予測のためまもなく一時閉鎖いたします。
千晶原へ向かうお客様はお早めに――』
楽しげな音楽をかき消すように、柱に設置されていた拡声器からのリフト運行案内が響き渡った。
ヴァルプスは歩みを止めると、手元の端末に視線を落とした。
「リフトには、乗れそうですが……」
レオンは空を仰ぐ。そこには雲ひとつない、抜けるような青空が広がっていた。
「……空はあんなに晴れているというのにか?」
「この魔晶高原の晴天は、時として罠になります。
地表がこれだけ穏やかでも、千晶原付近では、冷気と魔晶のエネルギーが衝突して突発的な局地強風が発生するのです。
このまま上へ向かえば、リフトの空中停止。無事に到着できても、強風がおさまるまで待機することになるかもしれません」
ヴァルプスは端末から視線を上げ、眼鏡の奥の眼を厳かに細めた。
「先ほど私が言った『抱えて空に飛び出す』羽目になります。もちろん、私は一向に構いませんが」
レオンは小さく鼻で笑い、繋いでいたヴァルプスの手をきゅ、と引いた。
「君の仕事の早さは、リスクの回避も含めてのものだろう。
……今回は、諦めよう。麓に戻るルートのほうが合理的だ」
「わかりました」
「……しかし。魔晶高原まで来たのだから、ここにしかないものを確認してから降りたい」
「ここにしか、ないものですか」
「そうだ」
「具体的には」
「それは、これからの視認調査とする」
レオンは観光客の雑踏の向こう、カラフルな看板の並ぶ一角へとヴァルプスの手を引いて歩き出した。
ヴァルプスは手を引かれながら、雪面に落ちていた赤い手袋に気がついて視線を落とした。
片ほうだけの手袋は、誰からも見向きされずに転がっている。
(巣から落ちた雛鳥のように、誰からも拾い上げてもらえない)
そう思ったヴァルプスは、空いていた左手で影を操作し、その手袋を案内板の端にかけてやった。
前を向くと、繋いだ手から伝わるレオンの温もりが、じんわりと心に染み渡ってくる。ヴァルプスは歩調を早め、レオンの隣に並んだ。
レオンがヴァルプスを見上げ、小さく笑った。ヴァルプスの手をゆるく握り直す。
ヴァルプスはもう、足元の雪に目を落とす必要はなかった。




