『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』③
第3部:限定領域サンプリング
窓の外を見下ろすと、さっきまで自分たちが歩いていたマルシェの広場が、まるでミニチュアの玩具のようにぐんぐんと小さくなっていく。
いちどは認識できた足湯のドームも、いまは空気に滲む白い湯気に隠れ、もう場所がわからない。代わりに、雪に覆われた針葉樹の深い緑と、かつて魔晶を運び出したという古い鉄路の錆色が、白銀の斜面に一本の太い線となって現れた。
「……素晴らしい上昇効率だな」
レオンは窓にサングラスを押し付けんばかりにして、温泉街の全景を観察した。その向こう、はるか遠くの峰のてっぺんから、白く細かい雪煙がさらさらと横になびいている。しかし、彼らの乗る鉄の箱はまだ、風ひとつない穏やかな陽だまりの中を静かに進んでいた。
「ゴンドラの終着点である魔晶高原までは、十二分ほどだそうです」
レオンの対面に座ったヴァルプスは、レオンと同じ方向に視線だけを走らせる。ヴァルプスはその長身と角の大きさが影響し、椅子に浅く腰掛け、背中を丸めるという窮屈な姿勢をとっていた。彼の長い膝は、対面に座るレオンの脚のすぐ横にまで割り込んでいる。
「……そうか」
レオンはいちど針葉樹の頂点を見下ろして、ぞくりと背筋を震わせた。どんなに長生きをしようとも、落ちるかもしれないという恐怖を感じてしまう。無意識にヴァルプスに顔を向けると、ヴァルプスは銀縁の眼鏡のブリッジを上げた。
「大丈夫ですよ。ゴンドラの安全性は確認済です」
「……それなら、いいのだが」
「万が一のときは、私が抱えて空に飛び出しましょう」
「……それは、頼もしいが」
レオンは座席に座り直すと、腕を組んでヴァルプスを見つめる。
隠れてバカンスに来ているのに、そんな派手な真似をすれば、翌日のSNSはレオンとヴァルプスの定点報告どころではない。別の意味の炎上ニュースで埋まるかもしれない。だが、実際にことが起きればヴァルプスは躊躇なくレオンを抱えて大羽根を広げるだろう、ということは理解できた。
レオンはヴァルプスの頭上を見上げる。そこには確かに巨大な角が生えているはずだが、いまはストールに刻まれた隠蔽魔法で隠されている。
角のない彼の姿を何度か見たことがあるはずなのに、レオンは微かな拒否感を胸に覚え、窓の外に視線をそらす。
言いたいことがいくつか浮かんだが、喉元で言葉にならず、そのままほどけた。
鉄の箱が晶嵐の白い寒気の中へと突き進んでいくにつれ、気圧の変化で耳の奥が小さくツンと鳴った。暖かかった車内の空気が、窓の隙間から滑り込んできた冷気によって、気づけば一回り引き締まっている。
やがて窓の外には白い峰々と、点々と移動する滑走者が映り込み、レオンとヴァルプスは興味深げに眼を瞬かせた。
――そこは、かつての採掘跡地とは思えないほどの喧騒に包まれていた。
標高千四百メートル、魔晶高原。
ゴンドラから降り立ったレオンは、ようやく窮屈な檻から解放されて、その頑強な長身を真っ直ぐに伸ばしたヴァルプスを見上げた。その頭上の先には、青空が広がっている。木ソリを紐で引きながら雪の上を走り回る子供たちと、それを追いかける夫婦がレオンの眼の前を通り過ぎていった。
レオンはただ除雪のために寄せられた小さな雪山に近寄って、しゃがみこむ。陽光を浴びてきらきらと煌めく雪に手を伸ばし、黒い爪先をそっと這わせた。
感嘆とも呆れともつかない溜息を漏らすと、その口元から白い息が小さく弾けて消える。
雪山の前から立ち上がったレオンは、背後に控えるヴァルプスを見上げた。
「すごく変な感じだ」
「変、とは?」
「わからない。だが、寒くて眩しい」
この眩しさに気圧されることなく、ただの観光客として雪を踏みしめていられるのは、他でもない目の前の男のおかげだった。
いつもはビジネスの世界に生きるレオンが、こうして初日から異郷の地を享受できている事実。
基本的な温泉街の知識から、麓の宿の確保、そして万が一に備えた裏での護衛の配置にいたるまで、すべてを調えたのはヴァルプスだ。
「……ヴァルプス」
「はい、何でしょう」
「改めて思ったのだが。君は、本当に仕事が早いな」
唐突なレオンの称賛に、ヴァルプスは一瞬だけ意外そうに眉を動かし、それからぎこちなく口元を緩めた。
「お褒めに預かり光栄です。ですがレオン、これは仕事ではありませんよ。
私もあなたとのバカンスを、私なりに最高のものにしたいだけです」
ヴァルプスの声音には、柔らかな温度が混ざっている。
レオンは何度か瞬きを繰り返したあと、白い峰々に視線を投げた。
「……そうか」
ヴァルプスは眼鏡の奥の眼を細め、ただ黙ってレオンの横顔を静かに見つめていた。




