『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』②
第2部:物理通貨の初期設定
二月十四日、午前七時十五分
朝もやが煙る石畳の坂道を登ると、氷点下の冷気の中で、古い湯治宿の窓から白い湯気が立ち上っている。
温泉の流れる音に混ざって聞こえてくるのは、店主たちの陽気な南訛りの挨拶だ。
広場へと足を踏み入れた瞬間、レオンの鼻腔を突いたのは、都会の執務室では決して嗅ぐことのない匂いだった。
天井から吊り下げられた、ハムと乾燥ソーセージの薫香。藁の上でじっくりと熟成された、鼻の奥を刺激する濃厚な羊乳チーズの匂い。それらが広場の中央で回る、トゲトゲとした奇妙な焼き菓子から漂う焦げたバターの甘い煙と混ざり合い、冷たく澄んだ山の空気を濃密に染め上げている。
「……なんだ?あの先鋭的な造形は」
レオンは、甘い煙を吐き出すその多突起状の構造物を遠目に見つめた。
ヴァルプスは手持ちの端末に手を添える。
「地元で有名な焼き菓子です。……食べてみますか?」
「いや。今はいい。あとで寄ろう」
レオンは少し考えたあと、歩みを進める。なるべく道の中心を歩き、店主たちに声をかけられないようにしながら、積み上げられた野菜の束や、果物を一瞥していく。
広場の奥には、食べ物とは毛色の違う雑多なスタンドが並んでいた。山の職人が作った無骨な木工品や、晶嵐の山肌から掘り出されたという石粉で創られた食器。それらの品々を目にしていたとき、レオンの足が止まった。
広場の隅、毛皮の外套を羽織った男が営む露店には、都会の宝飾店のような硝子ケースは存在しなかった。あるのは使い古された木箱と、その上で湯気を立てる、温泉水を張った不格好な石の鉢。
レオンの目を釘付けにしたのは、その温かい湯の底に沈められた、一個の結晶だった。
晶嵐の激しい吹雪がそのまま凍りついたかのような、鋭く洗練されたカット。冷たい空気の中で揺らめく温泉の湯越しに、その結晶は、光を吸い込むように内側から淡く明滅している。それはまるで、陽の光を浴びた浅瀬の水がそのまま形を持って凍りついたかのような透明感。そして、氷河の奥底に眠る、数千年前の空気を閉じ込めた氷の塊を思わせる色彩だった。
レオンは、その底知れない石の輝きに圧倒され、ただじっと見つめることしかできない。
ヴァルプスが怪訝そうにレオンの顔を覗き込み、それから手持ちの端末を叩いた。
「……『嵐翠石』ですね。結晶化の過程で、稀に魔力の嵐をそのまま内部に閉じ込める性質があります。その氷河の破片のような淡い色彩は、魔力の純度が高い証拠です。都会の富裕層の間では、高値で取引される石ですが……。購入されますか?」
ヴァルプスの声に、レオンは我に返った。コートのポケットの財布を握りしめ、視線を動かす。
木箱の上には、引き裂かれた羊皮紙の値札が置かれ、掠れた文字で『晶嵐、標高二千三百。嵐の夜に採掘。一万五千魔貨』と殴り書きされていた。
(買えない値段では、ない。しかし到着してすぐに支出してもいいのか……?)
店主が訝しげに腕を組み、レオンを睨め上げた。レオンはストールの中で唇を噛みしめる。
ヴァルプスが見守るなか、長い長い逡巡の末に、レオンは声を絞り出した。
「……いや、今はいい。あとで寄ろう」
「よろしいのですか?」
「……うん」
レオンは未練を断ち切るように踵を返し、他の店に視線を巡らせる。その背中に店主は鼻で笑ったが、レオンには聞こえていなかった。
レオンの視線が、広場の中央へと戻る。そこからは相変わらず、薪がはぜる音と一緒に、焦げたバターと砂糖の暴力的とも言える甘い湯気が立ち上っていた。
(一万五千魔貨の急な支出は、気後れするが。
小さな買い食いならば、旅のスタートアップといえるのではないか)
「……ヴァルプス」
「はい、レオン」
「先ほどの、あの突起物を。一緒に食べないか。もちろん私が払おう」
レオンは焼き菓子の屋台を指さしてから、ヴァルプスを見上げる。
ヴァルプスは、少しだけ口元を綻ばせた。
「いいですね」
レオンは店主に声をかけ、焼き菓子を二つ購入した。
六百魔貨の硬貨と引き換えにレオンが受け取った焼き菓子は、紙切れに包まれていてもなお、掌が火傷しそうなほど熱かった。
「レオン、あちらへ」
焼き菓子をダウンコートの袖で守りながら、レオンはヴァルプスに誘導され、広場横にある石造りのドームへ歩く。
そこは、街の源泉から溢れ出た温泉が路線となって流れる、大理石の足湯だった。
足湯の周囲には観光客らしき者たちが裸足になり、朗らかに笑いあっている。
ヴァルプスに手伝われながら、レオンは仕立ての良いズボンを膝まで手繰り上げ、凍える足をそっと湯の中に沈めた。
「っ……あつ、いや、心地よいな」
じわり、と熱が足裏から全身の血管を巡った。少し耐えていると、やがてそれは心地よさに変換される。
レオンの身体を内側からじわじわと支配していく感覚に、レオンは小さく息を吐いた。
「レオン。食べましょう」
「あ、うん」
レオンは、片手に持ったままのトゲトゲとした焼き菓子を見つめた。香ばしい焦げたバターの匂いが、鼻先で容赦なく主張している。
横にいるヴァルプスを見上げると、ヴァルプスは自分の焼き菓子をすでに一口齧り、口元を綻ばせていた。
「……ヴァルプス。これを足湯に浸かりながら食すというのは、いささか、破廉恥な行為ではないだろうか。
怒られはしないか?落としたらどうするのだ」
レオンはストールから顔を出すと、周囲の目を気にするように小声で尋ねた。
ヴァルプスはちらり、とレオンを見下ろす。焼き菓子を手早く口もとに放り込み、これみよがしに筋肉質な白い素足を湯の中で遊ばせてみせる。
「誰も怒りませんよ、レオン。そういう、場所なんです。
まさか、ご自分の焼き菓子を足元に差し上げる予定でも?」
「そんなことはしない。これは、私のものだ」
レオンは言い返すと、意を決して焼き菓子を口に運んだ。
外側は固く、中はしっとりとしていて、濃厚なバターの香りと甘みが口いっぱいに広がる。
強烈な温度差と、暴力的なまでの美味の波。普段は味わうことのない、野生の多幸感が一気に押し寄せてくる。
頬が火照っていくのを自覚しながら、レオンは思考を放棄し焼き菓子を完食した。
足湯の熱で身体が芯から温まり、糖分で脳が覚醒していくのを感じた頃。レオンは名残惜しそうに大理石の縁に足を上げた。
ヴァルプスに差し出されたタオルで水気を拭い、身支度を整えて立ち上がる。
軽く伸びをしたところで、空に浮かぶケーブルにレオンは眼を瞬かせた。
湯治宿の古めかしい屋根の向こう、白銀に輝く晶嵐の山肌へ向かって、青空を断ち切るように一本の太い鉄の綱が伸びている。そこを、小さな鉄の箱──ゴンドラが、ゆっくりと、しかし確実に高度を上げながら滑っていくのが見えた。
「……ヴァルプス。あれは、政府の管轄している輸送施設か?」
「いえ、ただの観光用のゴンドラですよ。この街の景色を一望しながら登れるそうです」
空を見上げるレオンに、ヴァルプスは端末の画面にゴンドラの運営会社のサイトを映して見せた。
「視察がてら、ゴンドラに乗ってみますか?」
「ふむ」
レオンは端末を覗き込む。
マルシェで見た嵐翠石の輝きが、レオンの脳裏に散らつく。
山へ登れば、あの石が採掘されたという『標高二千三百』の世界を、この目で確かめられるかもしれない。
「山頂まで、行けるのだろうか」
「ゴンドラから更にリフトを二回経由すると、標高二千メートルまでは行けるそうです。それより上に行くなら、それなりの準備は必要になりますね」
「二千までは、いまの装備でもいける?」
「各リフトの到着地点はなだらかな広場になっており、レストランやホテルが並ぶほど開けています。そこを歩くだけなら、今のままでも全く問題ありません」
(……まずは全体の地形を把握する。これもまた、今回の任務における重要なロジスティクスだ。
あの石の回収を検討するのは、山から降りてきてからで十分に間に合う)
レオンは自分の完璧な計画に満足し、ストールを直した。
「……よろしい。現地調査の一環として、あの鉄の箱に搭乗することを許可する」
「はいはい。では、行きましょう。
今度は私がチケットを支払いましょう」
「ありがとう」
レオンは、意気揚々とゴンドラの乗り場へと歩き出した。
山の時間は、都会の時計のようには進まないということに、まだ気づかないまま。




