『双愛の例外処理(バレンタイン・バグ)』①
第1部:偽装の部隊識別
二月十四日、午前六時三十分
ガタゴトと、断続的な重厚な鉄の響きが、凍りついた景色にリズムを刻んでいた。
晶嵐山脈の麓へとひた走る夜行列車極星号。一両まるごとを買い占められたその最後尾車両は、完全に外界から切り離されていた。
前方車両へと続く連結部の重い鉄扉の前には、巨漢のギブスが、腕を組んで文字通り壁として立ちはだかり、一般客の進入を物理的に完全封鎖している。
最も安全で、最も袋小路となる最後尾。その通路に、十二人の隊員たちは並んでいた。彼らは事前に用意された、銘々バラバラの私服を身にまとっている。その直立不動の敬礼がなければ、ただの観光客の集団として認識されていただろう。
「――以上が、今回の『バカンス防衛任務』のシフトです」
ヴァルプスの淡々とした声音が、暗めの照明に照らされた車内に響く。
「事前連絡の通り、今回は行動の秘匿性を高めるため、普段の『アルファ』『ベータ』といった部隊識別名の使用を禁じます。
衣服のIDタグも、すべてパッチでの上書きとなります」
ヴァルプスがそう言ってトレイから取り出したのは、妙に愛嬌のある山の動物たちの頭部が刺繍された、布製の装飾帯の束だった。すべてがパステルカラーで振り分けられている。
「各員、左腕にこれを装着してください。
これよりカイの日中警護班は『ウサギさんチーム』、ギブスの夜間班は『クマさんチーム』。
ハヤテの通信監視班は『シカさんチーム』、スレイの遊撃班は『オオカミさんチーム』です」
普段のコードネームではなく、本名で指名されたことで、護衛たちの背筋がわずかに緊張で伸びた。
「……ねえ、ヴァルプス」
レオンは座席から身を乗り出すと、サングラスをずらした。垣間見える青い目には、困惑が滲んでいる。
「なぜ私の護衛たちが、そんな名前で呼ばれなければならない」
「秘匿音声通信の基本です、レオン。
街中で『アルファ1、ベータ1、標的を確保』などと通信すれば、警戒網を敷かれます。
『オオカミさん、こちら迷子の子猫を発見』のほうが、周囲の観光客も油断するでしょう。偽装の一端ですよ」
レオンは軽く眉をひそめた。
「私は迷子に、ならない。
それにヴァル・デ・テルムは、治安維持の必要すらない温泉地と聞く。イレギュラーの生まれにくい平和な田舎のはずだが」
「ええ、治安リスクは限りなくゼロと算出されています」
「……過剰投資もいいところだぞ」
ヴァルプスは視線すら動かさず、手元の端末のスケジュールをめくった。
「彼らの真の任務は、あなたが滞在中に『隠れて決済承認の魔導通信を行わないか』の相互監視です」
「君は、私をなんだと思っている」
「救いようのない職務中毒です。
――ではハヤテ。テラル・フォンテーヌ駅に到着後、速やかにホテル周辺へ先行し、防諜査察を開始してください」
「ハッ! シカさんチーム、直ちに現地の通信監視措置へ移行します!」
ハヤテは大真面目な顔で、自分の防寒ジャケットの左腕にデフォルメされたシカ顔のついたバンドを装着した。その後、規則正しく敬礼をする。
護衛たちが各々バンドをつけていく様子を見守りながら、レオンはサファイアブルーのストールに顔をうずめて唇を尖らせ、サングラスをかけなおした。
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夜行列車が速度を落とし、軋む音を立てて停車した。
レオンは黒革のトートバッグの取っ手を一度握り直し、開いた扉から一歩を踏み出す。降り立ったプラットホームは、都会のそれとは違う、年季の入った灰褐色の石畳だった。
暖房に慣れた肺へ、刃物のような冷気が容赦なく突き刺さる。思わず喉を詰まらせたレオンの口から、驚くほど濃い白息が溢れた。その熱が、ヴァルプスに結び直してもらったばかりのストールをうっすらと湿らせる。
等間隔に灯る青緑の街灯だけが、線路脇に残る残雪をぼんやりと照らしていた。近くを流れる川の激しい水音に混ざって、ツンと張り詰めた山の空気と、どこか湿り気を帯びた微かな源泉の匂いが鼻腔をくすぐる。
「レオン。あちらのカフェに入りましょう。簡単な打ち合わせをあちらで」
レオンの手前を歩きながら、ヴァルプスは駅前にあるカフェを指し示した。
重い木戸を押し開けると、鈴が鳴り、同時に暴力的なまでのバターの香りと熱気が二人を包み込む。
直後、店内の低いざわめきが一瞬止まる。暖炉を囲む老人たちや、防寒着を着込んだ雪山巡廻隊の視線が一斉に突き刺さった。二メートルに近い長身の男と、鮮やかなサファイアブルーのストールで口もとを覆った男の登場に、店内が興味の空気に染まる。レオンは無意識にストールを鼻先まで引き上げ、ヴァルプスの影に息を潜めた。
ヴァルプスはシェーヌの木で出来たカウンターへと歩み出た。髭面の頑固そうな店主が、腕を組んでヴァルプスを見上げる。
「いらっしゃい。外は皮が剥けるほど寒いだろ?なにか飲むかい?」
「おはようございます」
ヴァルプスの低く澄んだ声が店内に響いた。
「カフェ・クレームを二つ。それと、クロワッサンを一つ、いただけますか」
店主は一瞬、ヴァルプスの銀縁眼鏡の奥にある鮮烈な赤目に目を奪われたが、すぐにふんと笑ってオーブンへ手を伸ばした。
「奥の暖炉の横が空いてるよ。勝手に座りな」
ヴァルプスはトレイに載せられた湯気立つカフェ・クレームの入った大ぶりの陶器のカフェオレボウルと、焼き立てのクロワッサンをスマートに受け取る。
振り返ってレオンに視線で合図を送った。
二人は、暖炉前の席に腰を据える。
ヴァルプスはその器を音もなく傾けて嚥下してみせる。レオンはヴァルプスのそんな様子を見つめてから、サファイアブルーのストールをずらし顔を露わにした。
ぎこちない仕草でクロワッサンをちぎり、欠片を口に放り込んだあと、ボウルを傾ける。湯気と一緒に珈琲とミルクの甘い香りが鼻孔に入り込み、甘苦い味が口の中に広がる。喉を通る熱が、レオンに今が現実なのだという感覚を与えた。
クロワッサンが半分になったところで、レオンは皿の端の紙ナプキンを引き抜き、バターの油分が残る指先を丁寧に拭った。それを見たヴァルプスは皿の上のクロワッサンの残りを片付けていく。
どことなくふわふわとした雰囲気のレオンの顔を一瞥したあと、手持ちのバックパックの中に手を入れる。やがてヴァルプスは卓の上に小ぶりの革の財布を置いた。
「レオン。こちらをご用意いたしました。本日分の『お小遣い』です」
「おこ……なんだと?」
「現金です。あなたがあの会社に籠もられてから、ほぼ触れる機会のなかった、現世の物理通貨ですよ。
あなたの頭脳にある旅の知識は完璧だ。しかし、それを実行する実務能力は著しく鈍っている――それが私の判断です。
ログを一切残さないという秘匿性の観点からも、この旅の決済はすべてこの仕様で行っていただきます」
差し出された財布を、レオンはまるで未知の魔導爆弾でも見るかのような目で見下ろした。恐る恐る中を覗くと、中には大小様々な不揃いの硬貨が詰まっている。この中からどの組み合わせを作れば先ほどの支払いは最適だったのだろうと、レオンはしばし悩んだ。
「二万魔貨、入っています。足りなくなったら言ってください」
「旅行用品か」
レオンは財布に指を滑らせる。
「……紐が付いているな」
「紛失防止です」
「……紐はいらない」
「半年前の、自宅の鍵」
「……」
「一年前の、端末」
「……」
「二年前の、靴」
「わかった」
不快そうに眉をひそめるレオンに、ヴァルプスは事も無げに頷いた。
「あと。これから向かう温泉街は、スキー客と地元民で視界の密度が跳ね上がります。
今日は、前を見て歩いてみてください。
周りの景色を見るときは、座ってからがいいでしょう」
「わかった」
「それから、なにか物珍しいものがあっても走り出さないようにお願いします。
護衛たちの陣形が乱れます」
「わかった」
レオンは神妙に頷いて、視線を壁にそらした。
二人が温かいカフェ・クレームを飲み終える頃、店内の空気の色合いが変わり始める。地元の老人たちがまとう枯れ葉のような衣装の色が、駅から流れてきた観光客たちの姿にゆっくりと塗り替えられていく。気づけば店内は、ゴーグルの鮮やかな色彩と賑やかな笑い声で満たされ始めていた。
壁時計の針は、駅への到着からちょうど三十分を指していた。
元の世界であれば、とっくにスーツに着替え、端末を弄っている時間だ。しかし今は、ただ異郷の熱が身体の芯に残っているだけだった。そのことが、どこか奇妙に思える。
レオンはふと、窓の外へ目を向けた。密度の高い夜の帳が、ゆっくりと群青色から柔らかな朝の光へと溶け出し始めている。
「――おい、あんたら」
カウンターの奥から、空になった食器を片付けにきた店員の男が声をかけてきた。
「重い荷物もないようだし、これから街を歩くんだろ。
だったら、朝日を追いかけて広場を突っ切っていくといい。今日は土曜だからな、ちょうど市場が立ち始めてるはずだ」
「市場、ですか」
「ああ、晶嵐山脈の美味い羊のチーズやハムが並ぶ。
都会の商店じゃなかなか拝めない代物があるよ」
店員は不敵に笑うと、レオンを一瞥してウィンクした。レオンはふっと口元を緩め、サファイアブルーのストールを巻き直して立ち上がる。
サングラスが、朝の光を浴びてゆるく煌めいた。
「……ヴァルプス。その市場を調査しに行くぞ。今後の投資価値があるか、高度な戦略的判断が必要だ」
「わかりました。
私としては、ただただ、買い食いをしていただきたいものですがね」
ヴァルプスが木戸を開け、レオンを促す。
レオンはダウンコートのポケットの中で財布を握りしめると、足を踏み出した。




