『休暇の強制軌道(ローカル・マイグレーション)』⑥
第6部:隠密の軌道投入
時計の針が、十八時五十分を指し示す。
ド・ラ・ノワール事務所のビル内は、今、三つの異なる階層に分かたれていた。
一階にある社員食堂「ラ・フォンテーヌ」。
普段は穏やかなその場所に設置された噴水が、幸福度を可視化したように、ゴールドイエローにライトアップされて煌めいている。
前日の決算報告会における『公的資産アメリア姫』の等身大ホログラム公開。
併せて、世間にばらまかれたフェイクニュースを物理的に叩き潰した『アメリア姫、1魔貨パンリアルタイム咀嚼』。その顛末は、食堂の壁面を占める大型ホログラムモニターに、グリーンのレーザーチャートとして示されていた。
『ARJB.F:11,800魔貨(前日比 +180%高・市場上限値張り付き)』
いちどは四千二百まで叩き落とされ、誰もが絶望を確信したあの数字が、今や垂直の緑光となって天を衝いている。
市場の安全弁を何度も過熱で焼き切った末の、前代未聞のV字逆転劇。そして明日から始まる、国が法律で保障した冬のバカンスという極上のバフが、その場に集った社員と家族たちの熱気を、いっそう鮮やかに彩っていた。
賑やかな乾杯の音や子供たちの笑い声が、通気口を通じて上階に響く。
三階、広報部分室――『グローバル広報作戦室』は、その歓声を遠い世界の出来事のように置き去りにして、阿鼻叫喚の戦場へと化していた。
「白鏡宮から最新バイタル同期!
アメリア姫殿下の『多幸感サージ・シンク』急上昇!すでに六十%を突破!」
「部長!送られてきた今夜ぶんの投稿素材『左の水晶角の先端エッジ画像』の魔力輝度が、平常時よりコンマ五パーセント跳ね上がっています!」
名を呼ばれたジルベールは、インカムに指を添えながら空中に展開するホログラムモニターを見上げる。
「加工チームは、すぐに画像調整に入ってくれ。原因特定はあとだ」
「アゼルフィード監理官から緊急伝達!姫殿下は本日のCEOからの連絡待ちでウキウキしています!排熱調整中!
予備タンク十一番まで解放、しかしルテティア一部地域で照明光度過大の恐れ!」
「ウ、ウキウキ……!?
完全に想定外だ、そんな可愛い情緒をこの高熱状態の市場に発信できるか!」
「部長!別方向からの『クラッキング』を検知!
送信トレイにCEOのグラビア画像が勝手に同期されています!
検出レベル、センシティブ判定A!!
完全に『お労しいお姿』です!!」
「犯人はグリッジです!」
「それはすぐに消せ!マルヴェイ様から預かったプロテクトを展開し、その問題児を今すぐここに引きずり出しなさい!」
ジルベールは、息を詰める。
「市場はあれだけお祭り騒ぎなのに、これ以上ボロを出せるか……。
今日は、絶対に平常運転に見せかけなければならないのだ……レオン様のためにも、絶対に!」
ジルベールは胸元から絹のハンカチを取り出すと、こめかみの汗を乱暴に拭う。いちど指揮者のように両腕を振り下ろすと、各方面に指示を出していく。今もなお、ピキピキと音を立てて上昇を続けるレーザーチャートを一瞥すると、祈るようにその視線を天井に向けた。
ジルベールのはるか頭上、十二階執務室――。
下層の喧騒が嘘のように、そこには静寂が横たわっていた。
カリ、と上質な白紙を擦る硬質な音だけが、部屋の奥の闇へと溶けていく。
漆黒の軸に金色のペン先。そこから滑り出す深いミッドナイトブルーのインクが、紙面に流麗な筆跡を刻んでいく。
モニターの青白い光と、仄青く燻ぶる魔力の残滓が満ちるなか、レオンの指先だけが古典的な時間を刻んでいた。
ある一文字を綴ろうとした瞬間、金色のペン先がピタリと止まった。じわり、と紙の上にミッドナイトブルーのインクが小さな溜まりを広げていく。
「……不覚」
レオンは低く呟くと、その書き損じた紙を丁寧に四つに折る。新しい紙を完璧な手作法で引き寄せ、再び万年筆を握り直した。次の一枚は、一分の狂いもない流麗な速度で、一気に書き上げられる。
最後の一行を紡ぎ終え、彼は万年筆をデスクペンスタンドへそっと差し込んだ。
手紙を流れるような手捌きで三つに折り、白封筒へと滑り込ませる。続いて引き出しから取り出したのは、琥珀色をした天然蜜蝋の粒と、銀製の小さなスプーンだった。
執務机の片隅で静かに揺れる、アルコールランプの炎。その上にスプーンをかざすと、凝縮されていた甘い蜂蜜の香りが、かすかな魔力の残滓とともに室内へと優しく広がっていく。
とろりと融けた琥珀の液体を封筒の合わせ目へと落とし、彼は漆黒の持ち手がついた真鍮製の金属印を迷いなく押し当てた。
微かに響いた壁の時計の針が、十八時五十五分を指し示す。
「……そろそろ時間か」
レオンが金属印を静かに引き離すと、そこには完璧な形状で冷え固まったレオンの紋章が刻まれていた。彼は出来上がった手紙を執務机の文箱の上に置き、更にその上に汎用接続媒体をひとつ重ねる。
レオンは立ち上がり、室内にある姿見へと視線を向けた。
鏡に映る自分の姿は、いつものスーツを着ていない。レオンの黒髪と褐色の肌を際立たせる、アッシュグレーの極厚ダウンコート。その下に仕込まれた白の極上羊毛のニットは、柔らかな感触を伝えてくる。ボトムスに合わせたチャコールグレーのパンツも、いつもとは違う軽快さを与えていた。
レオンは鏡の前でポーズをとってみたあと、傍らのソファに置いてあったサファイアブルーのストールを手に取った。
「レオン。準備はできましたか」
扉を開けながら、音もなくヴァルプスが室内に滑り込む。彼――ヴァルプスもまた、いつもの厳格なビジネススーツを脱ぎ捨てていた。
圧倒的な長身を包むのは、機能美を追求した漆黒のダウンジャケットとストール。
全身を黒で統一したシャープなシルエットは、彼の流れるような銀髪と、透き通るような白い肌、そして銀縁の眼鏡の奥に宿る血のような赤目を、鮮烈に引き立てていた。
「……よくその特注品の冬服が間に合ったな、ヴァルプス」
レオンは手に持ったストールを首元へ寄せながら、呆れたように彼の長身を見上げた。
「広報室の方々が、市場のチャートを見る以上の集中力で、レオンと私の体型データを遠征用の自動仕立てシステムに同期させていましたから」
私、とあえて一人称を変えてみせたヴァルプスにレオンは微かに眉を寄せたが、言及せずストールを握る。
ヴァルプスは、レオンの手元を見下ろす。視線の先を追ったレオンは、ヴァルプスにストールを手渡して僅かに首を反らした。ヴァルプスはタイを整えるいつもの仕草で、レオンの首元にストールを走らせる。
鮮やかなサファイアブルーの布地が、ヴァルプスの手によって胸元で結び目となっていく。
それは防寒のためだけではない。現世のメディアやパパラッチの魔導カメラから、悪魔たる彼らの角を一時的に隠蔽するための、厳格なプロテクトの一端でもあった。
「……交通は、ちゃんと確認したのか」
「はい。現在、二区駅にてアルファ部隊が待機中。
二区駅から流星特急経由にて十二区駅到着後、ベータ部隊合流。そこから撹乱移動を挟んで十三区駅へ。二十時半まで駅直結のホテル内で待機していただきます。
二十一時に極星線の夜行列車にて、ガンマ部隊と合流。
テラル・フォンテーヌ駅への到着は明日の朝七時予定です」
「……君も」
「?」
「……いや」
レオンは言葉を呑み込み、顔を背けるようにして、先ほど執務机の上に置いた手紙へと視線を落とした。その青い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、影が過る。
ヴァルプスはレオンの横をすり抜け、その手紙と汎用接続媒体を長い指先で回収した。
まだ仄かに甘い蜂蜜の香りを残す、琥珀色の封蝋をじっと見つめたあと、それらを自分のダウンジャケットの内ポケットへと滑り込ませる。
「アメリア様への手紙の管理まで委ねておいて、今更なにかの心配でも?」
ヴァルプスはレオンの心を見透かしたように、柔らかく口の端を上げた。
「どれほど不本意なバカンスであろうとも、あなたの一歩後ろには、常に控えている者がいることをお忘れなく」
「……わかってる」
レオンは満足げな、あるいは少しの諦めを含んだ含み笑いと共に答えた。
ヴァルプスは音もなく一歩下がり、流れるような美しい所作でその長い片腕を斜め前へと差し出した。彼を主として立て、夜の街へと安全に先導するための完璧な角度。
レオンはヴァルプスが差し出した腕の先へと一歩を踏み出す。サファイアブルーのストールを揺らし、冷徹な夜景を見下ろす窓に背を向けた。
旅が始まる。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




