『休暇の強制軌道(ローカル・マイグレーション)』⑤
第5部:資産保全の強制終了
頬杖をついたままこちらを見つめるマルヴェイの視線を、レオンは正面から受け止める。
「マルヴェイ」
「ん?」
「提案なんだが。あの『鏡の国』は今後、監査用のスタンドアロン・サンドボックス(実験環境)として正式設備として残そう」
マルヴェイが、頬杖をついたまま片眉を上げる。
「正式設備に?」
「そうだ」
「予算は?」
「私が今ここで承認しよう」
レオンは迷いなく、端末を懐から取り出して指を滑らせてみせた。
「運用担当は?」
「……君だ」
「はっ!……最悪。でもいいよ」
「引き受けてくれるのか」
マルヴェイはわざとらしく天を仰ぎ、大げさに肩をすくめてみせた。
「君が自分で壊して、自分で残すと決めたものだからね」
その言葉に、レオンの胸の奥が揺らぐ。
「ありがとう、マルヴェイ」
マルヴェイの呆れたような視線を受け止め、レオンは小さく息を吐いた。それから、気恥ずかしさを振り払うように手元の端末へ視線を落とす。
「……次の案件に移りたい。
概念スーツの着脱プロトコルの、トリガー変更について」
「代替案は?」
「考えてはいる。
『コンプライアンスに基づき、セキュリティの解除を要求します』。
もしくは『解除』、『パージ』」
「長い。そして逆に短い。ありきたりな言葉は、ソーシャルエンジニアリングで破られる。他には?」
「……それだけだ」
マルヴェイは一瞬机に視線を走らせてから、レオンを見た。
「『いいから、脱がせろ』の何が不満なわけ?」
「……誤解されやすい。その。良くない気がする」
レオンは昨日の出来事を思い出して、少し頬を赤らめる。マルヴェイはにやりと口の端を上げ、目を細めた。
「そんなにそのワードが嫌ならさ――」
マルヴェイは魔導鍵盤に再び指を乗せ、楽しげな声音で言い放つ。
「今回のバカンス中に、新しいフレーズを考えてきたら?
時間はたっぷりあるのだから」
「……私のバカンスのことを、君はどこまで把握しているんだ」
「なにも。だけど、君がこの地下ラボに逃げ込んできた時点で、社内の全状況は予測がつくよ。
周りの浮ついた空気を無視して、既読はつけていても仕事のログしか見ないようにしてたのは、君だけだったから」
レオンは気まずそうに、視線を泳がせた。
「さあ、確認したい用件は終わったよ。早く上に戻って、荷造りしなよ」
「ま、待て。まだ許可された時間は六分残っている」
「君がここに居座り続けて、あれこれと新しい仕様変更や来期計画の暗号化を思いついたりしたら、私はパッチを当て続けなきゃいけない。
君がいる限り、私はシャットダウンも出来やしない」
「マルヴェイ」
レオンは思わずマルヴェイへ手を伸ばした。しかし、伸ばした指先が机の上の小瓶をなぎ倒す。
硬質な音を立てて転がったそれを掴み上げ、レオンは目を瞬かせた。貼られていたのは、徹夜作業の痕跡を示すような、ひどく現実的な栄養ドリンクのラベルだった。
レオンはラベルに書かれた成分を読んだあと、マルヴェイに向き直る。その青い瞳には、冷たい輝きが差し込んでいた。
「……マルヴェイ、君、これを何本飲んだ」
マルヴェイは口もとを袖で隠しながら、小首を傾げた。
「覚えていない。でもただの末端の枝葉のドリンクだ。副作用も少ない。
ラグは、最小限、だ」
「最小限なものか。君、今『最小限』と言う前に確実に脳内メモリが一秒断片化して言葉が詰まったぞ。
十二日のサイバー戦で、思考の前借りをしたな」
「人のことを言えるのか。自分だって似たようなものを、飲んだくせに」
「……わかるのか」
「そうだよ。だから。君がバカンスに行ってくれたら、私はこの地下で『常時接続型・潜行防衛』として休めるんだ。
私がここで泥のように眠ることで、我が社の防衛ログには『CISO常駐』と記録され、ガバナンスも完璧にクリアされる。
……さあ、これで説明可能性は通ったね。 だから、早く上に行きなよ」
「……なるほど」
レオンはすう、と息を吸った。手のひらの上にある硝子の小瓶を何度か握り直したあと、机の上に置く。その動作は緩慢で、しかし淀みなく行われた。
「そうか。私がいなくなったら、君はここで寝てくれる、ということか」
レオンはゆらりと立ち上がると、マルヴェイを見下ろして腕を組んだ。完璧な査察完了を突きつける姿勢で、堂々とその場に根を張るように立ちはだかる。
「寝ながら常駐する。一見非人道的に見えて、CISOの生存率と防衛ログの整合性を両立させる、極めて合理的な『引きこもり防衛策』だな。
……よし、認めよう。マルヴェイ、君は今日から一週間、ここで寝ながら事務所を守れ。その『常時接続型・潜行防衛』プロトコルを、私はCEOとして公式にパッチ承認する。業務命令だ」
腰を落とし、マルヴェイの翡翠の瞳を至近距離で覗き込んだ。
「……勘違いはしないでほしい。私は、ヴァルプスの押し付けに屈したわけでも、暇を恐れたわけでもないのだ」
自分に言い聞かせるように呟き、レオンは不敵な笑みを湛える。
薄い唇の隙間から覗いた白い犬歯が、冷たく、鋭い光を放った。
「マルヴェイという我が社最重要の防衛資産を保全するために、CEOである私が『オフィスから仕事を一時的に消滅させる』という、極めて高度なトップダウンの経営判断だ。
だから、行ってやろうじゃないか。バカンスへ」
レオンはそう言い切ってから、視線を宙に投げる。
「……そう、そうだな。ただし、毎時二十一時の定期連絡は必須とする」
マルヴェイは小さく口を開けて目を見開く。その後、袖口で口元を隠して小さく笑った。
「……了解したよ。では、君の傲慢な命令に従って、私は今から三秒で意識を落としてあげよう。……ヴァルプスさんによろしく」
マルヴェイはひらひらと手を振った。
レオンはゆっくりと頷くと、一度だけ振り返って背後のSREたちに顎をしゃくってみせる。
「あとを頼む」という、無言の指示に、SREたちは無言で、複数並んだディスプレイの隙間から親指だけを突き上げてみせた。
レオンは革靴の音を響かせ、扉へと、まっすぐに歩き出した。
重い防音扉が開かれ、ゆっくりと閉じていく。
誰も何も言わない。
「……」
やがてSREのリーダー格であるレイモンが立ち上がる。摺り足でマルヴェイに近寄ったあと、勇気を出して口を開けた。
「マルヴェイ、様……?」
返事はない。
頬杖をついて目を閉じたマルヴェイの呼吸だけが、密やかに繰り返される。
「寝てる……」
「本当に寝てるぞ……」
「だから帰らせたかったんですね……」
レオンのトップダウンによって、地下ラボのすべての未決タスクは消滅した。
SREたちは顔を見合わせると、小さく肩をすくめた。誰からともなく仮眠室のブランケットを取りに立ち上がる。息を潜めて、そっとマルヴェイの肩に掛けた。
地下ラボには久しぶりに、障害対応ではない穏やかな時間が流れていた。




