『休暇の強制軌道(ローカル・マイグレーション)』④
第4部:非公式の砦
十二階の非常口から地上のロビーを迂回し、レオンは地下第一メンテナンス・ラボに辿り着いた。
重い防音扉を、細心の注意で押し開ける。
無数の光ファイバー。上階と同期しない独立バックアップサーバー。冷涼な排風が鳴り響くそのフロアは、異様な独自魔法の領域と化していた。
サーバーラックを囲う何重もの赤い垂れ幕と、天井を埋め尽くす銀色の鈴が、冷たい風に吹かれて揺らめいている。
レオンにとって、ここはヴァルプスの包囲網から隠れつつ、残り数時間の「仕事」を片付けるための砦に見えた。
サーバーの青いインジケーターに照らされたセキュリティルームの奥で、端末のログを監視していたマルヴェイは、扉が開いた瞬間、あからさまに深いため息をついた。
室内にいたSREたちの視線が、マルヴェイとレオンの間を泳ぐ。彼らは一瞬でさまざまな感情を顔に混ぜ合わせると、巻き込まれまいとするように、一斉に目の前のディスプレイへと視線を戻した。
「……君の生体ログ、十二階の非常階段で完全にロストしてたよ。おかげで護衛部隊は、最下層の防音訓練室まで行って君を探している」
「マルヴェイ、メインサーバーの魔力冷却効率に問題はないかい?
……CEO直々の物理査察だよ。感謝したまえ」
「アポなしなんだから帰りなよ。私はCISOであって、迷子の収容所じゃないんだ」
マルヴェイは画面から目を離さないまま、冷たく言い放った。
レオンは小さく眉を寄せたが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。激しい有酸素運動でガクガクと笑う膝を気力で押さえつけ、サーバーの重低音ハミングが満ちる部屋の奥へと、堂々たる足取りを装って一歩踏み出した。
「……マルヴェイ、確認事項がある」
レオンはマルヴェイの眼の前まで来ると、机の空いている場所に両手を置いた。そこでマルヴェイはようやく魔導鍵盤を叩く指を止め、その翡翠の瞳をレオンに向ける。だが、向けられた光には、仕事モード特有の情のない陰が滲んでいた。
「何件?」
「……五件」
「帰ってください」
「む」
レオンはそう唸ったものの、一歩も動く気はなかった。それどころか、壁際に置かれていた誰も使っていない作業椅子を引き寄せると、キャスターをゴロゴロと鳴らしてマルヴェイの横に陣取った。
深くシートに腰を下ろし、限界を迎えていた膝を密かに解放する。
「君のスケジュールの空きが出るまで、待とう」
「そう」
マルヴェイは、短く応じる。
「とりあえず、護衛部隊には『発見』と送っておいたよ」
「ちがうよ、マルヴェイ。査察だ。
私は地下設備の査察に来ただけだと言っただろう。捜索は不要と伝えてくれ」
「……そう、そうだったね。了解。『遭難者本人は査察と言い張っています』って追記しておこう」
「うん」
レオンは安堵したように、にこりと笑う。その瞬間、周囲のSREたちがモニターを凝視したまま一斉に肩を震わせ、笑いをごまかすためにわざとらしい咳き込みの音があちこちで上がった。マルヴェイはそれらの音を完全に無視し、深いため息をついた。
「……十五分だけ時間を作ろう。それで、その五件の用件は?」
レオンは待っていたとばかりに右手につけていた銀の腕輪からホログラムデータを表示する。
マルヴェイはそれに視線を走らせると、魔導鍵盤から離した白い指先で光のタブを次々と弾き始めた。興味のない議題はまるで塵でも払うかのように画面の外へとスワイプされ、必要なデータだけが淡い光を放って中央に残される。
「これは後日の定例会議でいい。これも。……残ったのはこれと、これだけだ」
一瞬にして五件から二件へと間引きされたホログラムを前に、レオンは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「待てマルヴェイ、勝手にトリアージするな。その弾かれた三件目は、我が社の未来を占う極めて重要な『H.E.R.M.E.S』に関するアジェンダだぞ」
「急ぎじゃない。テストするにも今日は無理。そもそも、たかだか三週間程度の生体同期データじゃ、ディープラーニングの役にも立たない。それとも何?君の不在をそいつに任せて、サイバー攻撃でも受けてセキュリティ事故を起こしたいの?」
レオンは言葉に詰まり、喉の奥で小さく呻いた。正論、かつCISOとしての意見を突きつけられては、いくらCEOの権限をもってしても、これ以上押し通すことは不可能だった。
「……駄目、か?」
レオンはゆっくりとマルヴェイの顔を覗き込む。マルヴェイは僅かに目を細めた後、ちらりとレオン側に視線を投げた。それから、モニターを見つめ直す。
「リスクが高い。ただし、私とアルトくんが監視できる半自動モードとしてなら、テスト運用してデータを取ってあげてもいい」
「そうしてくれ」
頷いたレオンは、相談案件の一件目を表示し直した。
「では、こちらのM.O.N.Oの件から確認したい」
「……鏡の国の話?」
魔導鍵盤に触れかけたマルヴェイの指先が、ぴたりと止まった。
「そうだ」
「何を確認するの」
「解除したい」
数秒の沈黙。
冷涼な排風の音と、マルヴェイが再び魔導鍵盤を叩き始めた冷たい音が、レオンの耳に響く。
「理由は?」
「必要性が、なくなった」
「雑だね」
「……雑ではない」
「じゃあ説明して」
レオンは小さく眉を寄せた。
「元凶である叔父上とは、話したんだ」
「知ってる」
「監査そのものに、異議はない」
「うん」
「問題は、特権アクセスが事前に通知されなかったことだ」
「うん」
「……今後は適切な通知手順を設けることで、叔父上とも合意した」
「へえ」
マルヴェイは即座には頷かない。翡翠の瞳を画面に向けたまま、静かに口を開いた。
「それはガバナンスの話だ。私、はセキュリティの話をしているんだよ」
「む……」
レオンは一瞬、言葉を止めた。マルヴェイの顔を見つめながら、顎に手をあてる。
技術的な言葉を探しながら、レオンは慎重に話を切り出した。
「……本番環境と、偽装された『鏡の国』の差分はどうなっている」
「毎日増えてる」
「同期コストは」
「上昇中」
「障害リスクは」
「上昇中」
マルヴェイは、少しだけ眉を上げた。
レオンがようやく、現場のエンジニアと同じ理屈に乗ってきた。そのことに意識が向く。
「決算対応も終わった」
「終わったね」
「……監査を正式に許容する手順を設ける以上、この偽装運用を継続する理由がない。維持コストに対して、得られる利益が薄すぎる」
「そうだね」
魔導鍵盤を叩く音が止まった。マルヴェイの胸中に、初めて納得が生まれる。だが同時に、言葉の端に感情が混ざった。
「君は簡単に、言うけど」
マルヴェイは無意識に、長袍の袖を引いて手首の火傷の痕を掻く。黒い爪が、かすかに煌めいた。
「何だ」
「一月二十九日の君は、この事務所ごと戦時体制に移行させた」
「……」
「だから、確認しているんだ」
「……何を」
「これは、君の結論?」
レオンは答えなかった。
「オスカル卿に納得させられたんじゃなく?」
マルヴェイはそこでレオンに顔を向ける。レオンの真意を探るように下からじっと見上げられ、レオンは静かに黙り込んだ。
「誰の結論でもなく、私の期待に応えたわけでもない?」
互いの作業椅子が、ぶつかって鈍い音を立てる。レオンの尻の陣地に乗り込んできそうな勢いで迫るマルヴェイにレオンはどことなく懐かしさを覚え、目を瞬かせた。
数秒の間をおいて、レオンは口を開いた。
「……違う。私が決めた」
「そう。ならいい」
マルヴェイはそこで笑みを浮かべた。
白い足が上がる。ゆっくりと机の脚を踏みこみ、作業椅子ごとレオンから身を離す。
「少し、安心したよ」
目を細め、マルヴェイは机の上に頬杖をついてレオンを見つめた。
翡翠の瞳から、仕事中特有の硬質な光だけが薄れていた。




