『休暇の強制軌道(ローカル・マイグレーション)』③
第3部:逃避の依存関係
非常階段へと続く重い防火扉に滑り込み、レオンは音もなく背中でそれを閉じた。
カツン、と仕立ての良い革靴の音が、コンクリートが剥き出しの薄暗い空間に小さく響く。
ここなら壁面の魔導遮蔽シールドが厚い。ヴァルプスがタブレット経由でレオンを追跡していたとしても、自分の生体位置情報がロストするはずだ。
「よし……私の勝ちだ」
見栄を張る相手もいない暗がりで、レオンはふう、と息を吐いた。
薄暗い非常階段の踊り場を見回しながらタイを締め直し、ひんやりとした階段の段差に浅く腰を掛ける。それから、先ほどから激しく震え続けている個人端末の画面を手早くスライドした。
「待たせた。……バルトロメ?」
『……遅いぞ、レオン』
端末の向こうから返ってきた第一声は、寝起きのような気だるげな低い声音だった。
『……まあいい。早速だが答え合わせといこう。
それで。実際に見てきたんだろう?久々のオスカル叔父上はどうだった?
断片でいい。叔父上と話したことを教えてごらん』
レオンはバルトロメに促されるまま、口を開く。できるだけビジネス・トーンへと声を切り替えながら、昨日の記憶を並べたてる。レオンが長々と説明するなか、バルトロメはこまめに相槌を打った。時折、カンカンと何かを叩く金槌の音や、衣装の擦れる騒がしい気配が微かに漏れ聞こえてくる。その音をBGMに、レオンの報告に深く納得したように静かに息を漏らす音が、受話口の向こうから聞こえてきた。
『……ではこちらから改めて聞こう。叔父上は何をした』
「AIの運用方針を修正した」
『他には』
「プロモーションビデオについて、話した」
『他には』
「契約の件について確認したが、結論は保留となった」
『他には』
「栄養ドリンクを、渡された」
『他には』
「……終わりだ」
『事務所は乗っ取られたか』
「いえ」
『首を切られたか』
「いえ」
『契約執行は』
「……なかった」
『では、君の予測は何%当たった?』
「……」
『半分?』
「……」
『一割?』
「……」
レオンはなにもない壁を見つめ、眉を寄せる。
数字にすると負ける。それはわかっていた。
「叱責、はなかった」
『そうだ。君は叔父上を恐れている。それは理解できる。
だが予測精度は別問題だ。
……では、レオン。君に聞こう』
「はい」
『次に叔父上が、君に何をすると思う』
レオンは開きかけた口を閉じる。
端末画面の青白い光が壁を照らし出している。それを今更のように気にして、端末の角度を変えて持ち直した。
長い逡巡のあと、レオンはため息とともに声を漏らした。
「……わからない」
『素晴らしい』
「?」
『それが観測の始まりだ。
……人間は、観測対象が増えるものだよ』
「……」
『では、別件だ。
私はこれから四週間、国外でのクローズド公演に出発する。
暫く会えないが、定期的に連絡することは約束しよう』
「……わかった」
『君もこれから二週間、暇になるのだろう?ヴァルプスくんから、話は聞いている』
「暇では、ありません」
レオンの反抗心が、口調を変える。
バルトロメは、それを聞いて鼻で笑った。
『暇に、なるのだよ』
レオンは、臭いものを嗅いだあとの猫のような顔をした。
『そこで、二つ課題を出そう』
「……何でしょう」
『ひとつめ。叔父上本人に渡さなくてもいい。休暇先で、自分が叔父上のために選んだ土産を買ってくるんだ』
「……はい」
『ふたつめ。仕事をしてはいけない』
「それは、だめです」
『だから課題なんだ』
レオンは今度は酸っぱい檸檬でもかじったかのような、とても嫌そうな顔をして、何もない壁を睨みつけた。
『正確には違うな。
仕事をしたくなった瞬間を記録したまえ』
「……?」
『何が起きた時に、仕事へ逃げたくなる?
何を考えた時に、仕事へ逃げたくなる?
何から目を逸らしたくて、仕事をする?』
「……それは」
言い淀むレオンに対し、バルトロメは一拍の間を置いてからため息と共に声を出した。
『安心したまえ。
二週間で、世界は滅びない』
「いまの会社に、私は必要です」
『みんなそう言う。
君がいなくても回る世界を、その目でじっくりと見てくるといい。
……そうだな。その間に、もし世界が滅びたら』
バルトロメの言葉の後に、風の音が混じる。
『休暇明けに、教えてくれたまえ』
通話が切れる。
「……私が、いなくても」
レオンはぽつりと呟き、なにもない壁から視線を外した。バルトロメの言葉が、冷たい階段室の空気に溶けていく。
ひとまず執務室に戻るため、レオンは立ち上がる。
考えを整理しながら、無意識のようにドアノブを引いた。
ガチリ。
「……え?」
動かない。押しても引いても、一ミリも動かない。ビルの非常階段は、防犯のためにオフィス側へは戻れないオートロック仕様だという知識が、レオンの脳裏をよぎった。
端末の電波は、コンクリートに阻まれて圏外を示している。
分厚い防火扉を叩くが、驚異的な防音性を誇る前室は、レオンの焦りを無慈悲に吸い込むだけだった。
レオンは薄暗い下り階段を見下ろした。ここから地上までは、きっかり十二階分。
「……まいったな」
レオンは苦笑しながら、階段を降りる。
「……それに、お土産、だと?」
レオンの頭は早くも「オスカルへのお土産の選定」という、生まれて初めての難解なミッションについてぐるぐると回り始める。
午前中の仕事は、あまりにも過酷な有酸素運動と共に幕を開けた。




