『休暇の強制軌道(ローカル・マイグレーション)』②
第2部:定款の自動執行
二月十三日 九時
ヴァルプスが淹れたハーブティーの香りが、執務室に甘く漂う。
カップを一度傾けたあと、レオンは椅子に座り直す。それから、魔導鍵盤の結晶板に滑らせるように指を走らせた。
CEO特別顧問バルナザールへの定期連絡、ルテティア銀本位取引所総裁ボナールへの礼状と胃薬の手配。
テーラー・バベルへの成功報酬の手続き承認を行ったあと、ふと社内チャット『レトス』の書き込みを覗き込む。
雑談スレッドを見てみると、そこには『おまえらバカンスどこいくの?』という社員たちの浮かれた書き込みが流れていた。
「結構なことだ」
レオンはフッと目を細める。部下たちが海辺で寝そべっている間に、レオンはこの連邦の金流の四割を社の口座に直結させる。
「……実に効率的な、バカンスじゃないか」
レオンはホログラムに映る投資計画書を眺めながら、そっと唇を舌で湿らせた。
数字が数字を生み、インフラが世界を支配する完璧なサイクルを頭の中で組み立てているからこそ、不敵な笑みを浮かべる。
朝の腕立て伏せ一回分の筋肉が、心も心地よく引き締めている気がした。
ヴァルプスがレオンの横に滑り寄り、タブレットを差し出した。
「メイさんより連絡です。早朝、オルカの残党が警察へ引き渡されたと。
主犯のオルカ氏は逃亡していますが」
「そうか。オルカに悪魔が関わっているのは顧問から聞いている。彼に対価を支払い続けられる限りは、どこへでも逃げればいい」
「そうですね。我が社の株価暴騰の裏で、オルカの破産は完全に確定しました。実務部隊も全員御用です。彼らは現世の法律で厳罰に処されるでしょう。
……まあ、身ぐるみを剥がされたオルカ氏が、いつまで悪魔の雇用費を払い続けられるかは見ものですが」
「がんばって延命してくれ、としか言いようがないな。
……さて、オルカの始末はそれでいい。来期のエネルギー供給の利回りだが――」
「――その前に、まずはこちらの確認を」
レオンの視界に差し込まれたのは、ファンシーな桃色で彩られた『冬季休暇行動計画書』。
それは執務室の落ち着いた色合いに、長方形の花弁のようにひらめいた。
「旅のしおりです」
「……?」
「誰のだ」
「あなたのです」
「なぜ」
「休暇です」
「休暇」
「休暇です」
「私が?」
「あなたがです」
「……待ってくれ」
レオンはいちど鼻の頭を掻いたあと、旅のしおりをめくる。
スケジュールの項目に目を通した後、横にいるヴァルプスの顔を見上げた。
「これは仮案だな?」
「確定版です」
「そうか」
レオンは視界に映る投資計画書に手を伸ばし、画面を消した。
「私の承認は」
「国の休暇法に基づき、執行済みです」
「いつだ。私の電子署名なしに定款や社内規定の自動執行トリガーが引かれるはずがない。
いつそんな決議をした?」
ヴァルプスは淡々とタブレットを操作し、白い指先で丁寧に文字をなぞってみせた。
「こちらをご覧ください。昨年末、十二月三十日のオンライン決算報告の直後です。
レオン、あなたが『これで今年度の数字はFIXだ、すべてのログをロックしろ』と私に全権限キーを投げ、そのまま椅子の上で眠った、あの十分後です」
「……」
「我が社は上場企業です。CEOの過労死リスクは、即座に株価の下落に直結する。
あの時、あなたの生体データは『危険値』を示していました。私は労働法および上場定款第十四条に基づき、あなたの次期戦略的バカンスを代理執行しました」
レオンはヴァルプスの顔から胸元へと視線を落とし、動かなくなった。今日のヴァルプスの身につけたタイの色が紺色なのを確認し、小さく頷く。
「仕事がある」
「そのために、あなたは決算前に事務所泊まり込みで連続勤務を行いました。今クオーターの緊急案件はすべて処理済み。残っているのは、あなたがバカンス先でもリモートで目を通せる程度の定常タスクのみです」
「着ていく服がない」
「用意してあります。共同口座の予算枠で、承認済み規定の範囲内です」
レオンは完全に言い訳の弾切れを起こし、すがるような目で、目の前の冬季休暇行動計画書――旅のしおりを見つめた。
「質問です」
「何だ」
「最後に、一日中何もしなかったのはいつですか」
「……」
「思い出せますか。
ボクは、思い出せません」
「……私は、困る」
「何に困るのですか。あなたが二週間休んでも、この会社も、世界も、何一つ破綻しません」
ヴァルプスの声音は静かで柔らかい。だからこそ、レオンは長耳を僅かに伏せる。
数十秒の沈黙の後、レオンは絞り出すように声を漏らす。
「暇になると、困る……」
レオンはきゅ、と口を引き結び、所在なげに自分の指先をいじり始めた。昨日、世界中の数十億人を凍りつかせたあの優雅な指先が、今は手持ち無沙汰そうに宙を泳いでいる。
「レオン……」
ヴァルプスがそっと膝をついたところで、机上に置いていたレオンの個人端末が鳴り響く。
特別なコール音と併せて画面に浮かんだ【名前】を見た瞬間、レオンは端末を掴んだ。
「ヴァルプス。すまない。電話だ」
ヴァルプスが顔を斜めにしながら目を細めたところで、レオンは立ち上がると扉まで走り出した。
「あ、逃げた」
「逃げていない!」
「ちゃんと足元、見てくださいね」
「転ばない!」
扉を開け放ち、自らの執務室から廊下に飛び出すと、レオンはあたりを見回して歩き出す。
ヴァルプスは小さくため息を付くと、レオンの動向を追うべくタブレットに視線を落とした。




