『休暇の強制軌道(ローカル・マイグレーション)』①
第1部:予期せぬ外部割込み
逆光のなかで、その人は何も言わず、ただレオンの頭を優しく撫で続けた。
逃げなければならない。
そう理解している。
だが、その理由だけが思い出せない。
どこかへ行かなければならなかったはずだ。
何かを終わらせなければならなかったはずだ。
それなのに、温かな手が髪を梳くたびに、その必要性だけが霧のように薄れていく。
二度と走れなくなる。
そう確信しているのに。
白い花弁が一枚、手のひらに落ちる。
レオンは反射的にそれを握り潰した。
だが再び手を開いた時、そこにあったのは白い花ではない。
小さな、硝子瓶だった。
――あ、これ栄養ドリンクだ。
◆
「……っ、あっ」
窒息寸前の苦しさのなかで、レオンはまぶたを押し開いた。視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だ。
心臓がわずかに早く脈打っている。額に浮いた薄い汗が、寝覚めの悪さを証明していた。
(――無駄な、排熱処理をした)
そう心なかで毒づき、身を起こそうとした瞬間。
硬いシーツの擦れる音に、レオンの長耳が揺れる。
背後にいた分厚い質量が、レオンの腰と背中を包み込むように抱きしめてきた。
「……ヴァルプス?」
「おはようございます、レオン」
レオンが目覚めたのを確認し、ヴァルプスは寝起きの低い声を模してレオンの項に息を吹きかける。
「……バイタルの微細な乱動を検知しました。なにか、ありましたか」
「……おはよう」
レオンはいちど目を深く閉じた後、平坦な声を出す。
「ちょっと、未整理の夢を見ただけだ」
レオンの言葉のあと、ヴァルプスの腕の拘束が少しだけ強まる。
レオンは小さく眉をひそめ、ヴァルプスの脇腹を肘で軽く小突いた。ゆっくりと開いた白い腕の拘束をすり抜けてサイドテーブルのタブレットへ視線を走らせる。タブレットの縁に指を当てると、反応したバックライトが暗い寝室を鮮やかなグリーンに染め上げた。
画面の隅でリアルタイムに駆動していたのは、海外・夜間PTS市場の自社株のレーザーチャート。
『ARJB.F:11,800魔貨(前日比 +180%高・市場上限値張り付き)』
画面を埋め尽くす、眩いばかりのグリーンの跳ね上がった放物線。それを見た瞬間、先ほどまでレオンの脳を占めていた濁ったログが、一瞬で無機質な数字へと揮発していく。
そう。すべては計算通り。己の勝利を肯定する数字を見つめながら、レオンは目を細めた。
ちらりと寝台横のサイドボードを見る。その上にはヴァルプスの個人端末と、ナイトランプがあるだけだ。
――見慣れた風景。
「なんだ……いい朝に、なりそうじゃないか」
ゆるく弾みはじめた心を微笑みへと変換し、レオンはしなやかな動作で身を起こした。
休眠状態だったA.I.D.Aへ声をかけ、そのシステムを駆動させる。それから、壁に立てかけていた薄いマットレスを大仰に床に広げ、レオンは腰に手を当てた。
「……見ていて、ヴァルプス。A.I.D.A」
レオンはマットレスを裸足で踏みつけ、腰を下ろすと、一回だけ腕立て伏せをしてみせた。
『……記録完了。
……目標達成を確認。心拍数の安定、および自己肯定感の微増を検知しました。
本日も良好ですよ、マスター・レオン』
青い正八面体の姿をしたA.I.D.Aが、自身の横にホログラムの親指マークを表示する。
それが消えると同時に、レオンは鷹揚に頷いた。
「……フッ。今日という日は、この一歩から始まるのだ。
……ああ、未整理の投資計画書を開くのが楽しみだ」
一回きりのノルマを終えたレオンは、さも大事業を成し遂げたかのような爽やかな顔を上げた。それから、ヴァルプスの寝ている寝台に腰を掛ける。
「ちゃんと、見ていたか?ヴァルプス」
夜着を脱ぎながら自分を覗き込んでくるレオンを、ヴァルプスは頬杖をつきながらきわめて冷静に見上げた。
「ええ。とても、素晴らしかったです」
ヴァルプスは身を起こして、寝台に脱ぎ散らかされていく夜着を拾い上げた。
レオンがちいさくくしゃみをしたのを見届けながら、ヴァルプスは本日のスケジュールを静かに編み上げていた。




