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1魔貨の聖騎士 ― 価値ゼロCEOと悪魔の強制執行監査契約  作者: 暮夜すと
【シーズン2:本決算発表会編】Q1

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『氷結の黒字決算(ファイナル・クローズ)』⑩

第10部:融解する塩辛いリカバリ・スープ


 数字が、無機質に時を刻んでいく。


 ――00:00:00。


 日付が切り替わったその一瞬、世界のシステムが音もなく駆動した。


 ド・ラ・ノワール事務所、一階。

 社員食堂「ラ・フォンテーヌ」の巨大モニターを埋めていた膨大な幾何学コードが一斉に静止し、Q1決算データの横に、鮮やかな緑色の『確定ロック』ログが点灯する。


『ド・ラ・ノワール事務所、確定黒字』


 その公式速報が、暗号化ログのまま世界へ向けて配信された。


 食堂の中央にある噴水に、静かな青い光が灯った。


--


 冬の冷たい荒波が打ち付ける、岬の先端。

 石造りの小さな釣り人用の避難小屋に、窓の外から激しい波の音が響く。


 タブレットの画面に、オルカは指を這わせた。


「終わった……」


 オルカは力なく呟き、震えながら、タブレットの上に涙を流した。


 呆然としている間にフォラスに魚用のクーラーボックスに押し込まれ、氷漬け寸前でここまで運ばれた時にはまだ逆転を信じていた。だが、0時を境にすべてを失った。これで、明日の市場が開いた瞬間、オルカの空売りはすべて灰になる。


「あいつは、何だったんだ……」


 ぽつりと溢れた呟きには、怒りすら入っていなかった。

 レオンはオルカを倒そうとすらしていなかった。ただ、自社の決算を淡々と進めただけだ。結果として、オルカの仕掛けた罠ごと潰れた。

 真正面から巨大なインフラ企業に衝突し、塵一つ残さず弾き飛ばされたのだという冷酷な事実だけが、オルカの脳内を虚しく滑り落ちていく。


 パキ、と狭い部屋に硬い音が響いた。

 オルカが顔を上げると、丸椅子に腰掛けたフォラスが海老の殻を剥がしているところだった。剥き出しになった身を皿に並べながら、フォラスは冷淡な目でオルカを見つめた。


「――ですから、撤退を推奨したんですが」


 フォラスは淡々と言いながら、海老を刻み、次に貝の殻に手を伸ばす。


「……うるさい」


「私は、三回言いました」


「うるさい!」


「魔力通信のログ、すべて残ってますよ」


「うるさい!!」


 オルカはタブレットを放り投げると、冷たい寝台に飛び込んだ。毛布を頭まですっぽり被り、丸くなる。

 フォラスはサングラスの奥の目を少しだけ細めると、それ以上は追及せず、ただ淡々と調理を始める。鍋から立ち上る湯気が、狭い部屋をゆっくりと満たしていく。彼が命がけで持ち出したアタッシュケースは、そんな二人の傍らで、何事もなかったかのように静かに佇んでいた。


 簡易コンロの青い火が小さく灯る。

 鍋の中でグツグツと音を立てはじめたのは、魚介の出汁が効いたスープだった。

 フォラスは片付けを終え、手を拭く。それから、寝台の上でもぞもぞと動く毛布の塊を見下ろした。

 小さいため息を吐いてから、毛布を掴み上げ持ち上げる。

 涙をこぼすオルカを寝台に座らせ、その濡れた手にフォラスは曇った銀のスプーンを握らせた。


「ひとまず、冷酷なマネーゲームの戦士グラディエーターはおしまいですね。

 ……さあ、冷める前にどうぞ」


 差し出された器から、濃厚な魚介の香気が、容赦なくオルカの鼻腔をくすぐった。

 冷たく濡れた指先が器の陶器の温もりに触れた瞬間、凍てついていた心がじんわりと融解していく。


「……次、絶対に勝つし」 


 オルカは乱暴に涙を拭い、逃れるようにその熱を喉へと煽り込んだ。

 フォラスがオルカのために作ったそのスープは、とても、塩辛い味がした。


--


 夜を徹して戦っていた社員たちのために、温かいケータリングのワゴンが運び込まれていた。

 香ばしく焼き上げられたガレットやキッシュ、そして、湯気を立てる澄んだコンソメスープ。

 徹夜明けの冷え切った身体に染み渡るような優しい香りが、広く、殺風景な社員食堂を満たしていく。


 タイを緩め、あるいは椅子の背に深く体を預けながら、社員たちが将来への安堵と少しの毒を含んだ談笑をしていた。


「いやー、一時はどうなるかと思ったよ! これでやっと、安心して旅行に行ける!」


「おいおい、気が早いな。今年のバカンスはどこにするんだ?」


「南のリゾートさ。ニースィラの海岸で、一週間は何も考えずに寝て過ごすんだ」


 他愛のない、平和な笑い声が食堂に満ちる。それはほんの数時間前まで張り詰めていた、怒号と切迫した気配を塗りつぶしていくようだった。


 食堂の隅の椅子に座り、円卓に頬杖をつきながら、レオンは静かにまぶたを落としかけていた。

 鼻腔をくすぐる料理の香ばしい匂いと、弾むような会話のトーンが、疲弊した脳に心地よい子守唄のように響く。

 賑やかな日常のノイズに身を委ねながら、彼は深い泥のような眠りの一歩手前で、ただ社員たちの声を聴いていた。


 思考の輪郭が、ゆっくりと溶けていく。


「レオン、ここで眠らないでくださいよ」


「……ん」 


 コト、と硬い音を立てて、野菜スープの入った無骨なマグカップが円卓に置かれた。


 眠気でぼやける視界のまま、両手を伸ばす。すがるようにカップを包み込みながら、レオンは顔を上げた。

 ヴァルプスが、いつもの顔でレオンを見下ろしていた。レンズの奥の瞳には、ほんの少しだけ、戦いを終えた安堵の光が滲んでいる。

 ヴァルプスは小さく息を吐き、隣の席に腰を下ろした。スープの湯気を避けるようにして、冷たい指先で眼鏡を外す。丁寧に銀のケースへとしまうその横顔は、武装を一つ解いたかのようだった。


 レオンは温かいスープを口に運んだ。優しく、どこか懐かしい味が、疲弊しきった身体の芯をゆっくりと解きほぐしていく。

 レオンがスープを摂取したのを見届けてから、ヴァルプスもまた、無骨なカップを手に取りスープを啜り始める。


 二人の間に、しばしの沈黙が流れた。


「おかえりなさい」


 ふと、ヴァルプスが言った。カップを見つめたまま、声音はいつものように淡々としている。


 レオンはすぐには答えなかった。

 社員たちの笑い声が、遠くでさざ波のように響いている。

 スープの熱で喉を潤したレオンは、ヴァルプスを見てぎこちなく笑った。


「……ただいま」 


 ヴァルプスは答えず、ただ小さく頷いた。

 スプーンがカップに当たるかすかな音。それすらも、遠くで続く賑やかな笑い声の中に、ゆっくりと溶けて消えていった。



※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。

※2026/06/21 活動報告にて【祝・1万PV突破!】レオン記念イラスト公開&今後のスケジュール記載。

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