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1魔貨の聖騎士 ― 価値ゼロCEOと悪魔の強制執行監査契約  作者: 暮夜すと
【シーズン2:本決算発表会編】Q1

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『氷結の黒字決算(ファイナル・クローズ)』⑨

第9部:悪趣味な拒絶契約セキュリティ・プロトコル


 黒檀の扉が重く閉じる。――そこに、ヴァレリアンの姿はなかった。

 足音すら吸い込まれる静寂の廊下を、レオンは一人戻り始める。

 点在する護衛たちの目を盗み、レオンは公会堂のバックヤードへと続く、薄暗い職員用通路の隅へと滑り込んだ。


 自販機のハミングだけが響く静寂の中、壁に背を預けてズルズルとしゃがみ込む。

 金網の張られた蒼石灯の光が、汗ばんだ漆黒のスーツを照らし出していた。石畳の床から這い上がってくる冷気が、じっとり濡れた背中を容赦なく冷やしていく。


 胃の奥は栄養ドリンクによってじわりと温かい。だが、立ち上がるための指令だけが、どうしても身体のどこにも届かない。これからロビーへ戻り、待ち構える無数の投資家たちの前で、再び完璧なCEOの仮面を被って笑わなければならない。

 少しのためらいが、レオンを立ち上がらせることを止めていた。


 レオンは額を押さえた。その時だった。 

 静かな通路の奥から、石畳を硬く穿つ、冷徹なまでに規則正しい革靴の音が響いた。

 コツ、コツ、と近付いてくるその足音は、レオンのすぐ目の前でぴたりと止まる。焦点を失った網膜が捉えたのは、寸分の曇りもなく磨き上げられた、重厚な黒革の靴。それと同時に、通路にわずかに差し込んでいた蒼石灯の光が、唐突に掻き消えた。


 ――いや、遮られたのだ。しゃがみ込むレオンの全身を、頭上から降りてきた巨大な闇が、そっくりそのまま呑み込んでいく。背後の壁に伸びたその影の輪郭は、大柄な相手の、圧倒的な体躯の質量をそのまま写し取っていた。


「……何をしているのかね」


 低く、どこか朗らかな声が、その巨大な影の天井から降ってきてレオンの鼓膜を叩いた。

 見上げれば、バルナザールが立っている。


「顧問……」


「派閥の悪魔たちが君に挨拶をしたがっている。……探しに来てみれば、随分な様変わりだな」


 バルナザールは眉をひそめ、躊躇いなくレオンの前で片膝をついた。その大きな手が、レオンの首元へと伸びる。レオンは反射的に少し身を引こうとしたが、それよりも早くにシャツの襟先に指がかかる。


「汗がひどいな。君、そのままロビーへ戻るつもりかね」


 バルナザールはレオンのジャケットに指を滑らせ、そこで指を止めた。


「顔色が最悪だ。首元が詰まっているぞ。タイを解いてリラックスしたまえ」


「待っ、やめて、ください……!」


 レオンは咄嗟にその手を拒もうとしたが、バルナザールは体術を繰り出すようにレオンの腕を避ける。

 バルナザールがレオンのタイを強引に緩めようとした瞬間――スーツの襟元から、硬質な電子警告音が鳴り響いた。


 レオンは壁に後頭部を擦り付けながら、バルナザールを見上げた。ほんのすこしだけ、口もとが歪む。


「……特殊ロックです」


「解除しろ」


「……解除音声が必要です」


「言いたまえ」


「……」


「言いたまえ」


「……」


「レオン」


 圧がかかる。これ以上黙秘を続ければ、強引にスーツを破壊されかねない。

 レオンは覚悟を決めた。


「……い」


 レオンはぎゅっと目を閉じて、バルナザールからの視線から逃れるように顔を横に向けた。


「……『いいから、脱がせろ』」


 ピピッ、と静かな通路にシステム解除の電子音が鳴り響いた。

 バルナザールの動きが、完全に止まる。

 数秒の時間が、泥のように重く流れていく。


 バルナザールは、真剣に考え込んでいた。やがて、微かにぎらついた金の瞳がレオンを射抜いた。


「……君、私を誘っているのかね?」


「ちがいます!!」


 レオンは長耳を震わせて叫んだ。火照る頬を隠すように片手で顔を覆う。


「……なるほど」


 バルナザールは、気を取り直したように小さく肩をすくめた。


「君を縛るセキュリティとしては、ずいぶんと悪趣味なプロトコルだな」


 バルナザールはそれ以上追求せず、大柄な手でレオンの重いジャケットの肩を掴む。レオンが項垂れたまま力を抜くと、そのまま静かに引き剥がした。

 拘束を解かれたように、レオンの肩から余計な負荷が消える。

 シャツ一枚になったレオンの胸に、冷たい空気が通り抜け、肺がようやく正常な深さの呼吸を取り戻す。


「……ありがとうございます」 


 レオンは壁に頭を預けたまま、掠れた声で礼を口にした。


 上着を傍らのベンチへと無造作に放り投げ、バルナザールは立ち上がった。


「ロビーに来るか?」


「いちど着替えてから、いきます」


「……控室まで、運んでやろうか」


「いえ、大丈夫です」 


「そうか」


 バルナザールは少し考える素振りをみせたあと、レオンを見下ろした。


「落ち着いたら、ロビーに来なさい」


 バルナザールはレオンに背を向ける。

 再び規則正しい革靴の音を響かせ、通路の奥へと去っていった。


 静寂が戻る。

 レオンは一人、石畳の上で目を閉じた。

 胃の奥から広がった世界樹のエキスの熱が、血流に乗って全身の隅々へと行き渡っていく。鉛のように重かった四肢に、静かで力強い活力がじわじわと再充填されていく。


「……効くな」


 やがて、レオンは、自力で床を蹴って立ち上がった。膝の震えはもうない。

 一度だけ深く息を吸い、はだけた首元を整え、ジャケットを腕に引っ掛ける。


 覚悟はあった。なのに、オスカルは結論を出さなかった。

 契約も、十月も、何ひとつ結論は出なかった。

 差し出された保護も、拒否し切れなかった。


 ――それでも、自分を待つ場所がある。


 レオンは背筋を伸ばし、規則正しい歩調で廊下を歩き続けた。



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