『氷結の黒字決算(ファイナル・クローズ)』⑧
第8部:生体実験の強制受諾
オスカルはそれ以上、レオンの言葉に言及しなかった。
否定も肯定もしない。ただ、新しいログとして静かに受け流す。そして新しくホログラムを展開した。
「……次の話をしよう。一月二十七日のバイタル・アーカイヴの件だ。
状況は把握している。君のエルフ素体のコードが、悪魔の実行層に上書きされている件について。
――末端のハードウェア(肉体)にまで変異ログが漏れ出している。その頭の角も、黒い爪も、内部のコア(魂)が悪魔の実行ファイル(.exe)で強制駆動している証拠なのだろう」
オスカルの口から告げられたのは、レオンというシステムの最も深い領域に触れる話だった。
ヴァルプスとの共依存契約が、レオンの肉体を内側から書き換えている――その確定したログ。
エルフというアーキテクチャに、悪魔のシステムを走らせているというエラーコード。
――あるいは、別種族のアーキテクチャを融合させ、新たな『悪魔』の可能性を定義するという『特異点』。
(……どこまで、知っているんだ)
おそらくM.O.N.Oが調べたのだろう。レオンは諦念を交えた視線を壁に投げる。
レオンは壁からオスカルへと視線を戻し、ゆっくりと声のトーンを平常心と重ねていった。
「……医師の見立てでは、現時点での機能異常は確認されていません。
互換性の問題もなく、正常にパッチは適応されています」
「異常なし、という表現か」
「はい」
「ストレス値は」
「基準値を十五パーセント上回っていました。
――ただし、損耗抑制のためには、物理的な強制再起動および、魂構成の再編が必要との見解です」
「魂構成の再編とは」
「……食べて、寝ろといったものかと」
レオンはあえてそれを口にする。
オスカルは一度だけ頷いた。
「……なるほど」
短い沈黙。オスカルは手元のホログラムをすっと消去すると、座ったまま、その長い指先を伸ばした。完璧に誂えられた茶器のセットの傍らに置かれていた、あの場違いな栄養ドリンクの小瓶。オスカルはそれを指先で軽く押し、円卓の中央、レオンの手元へと滑らせた。カツン、と乾いた硝子音が静寂に響く。
「必要なら、持っていきなさい」
「……?」
「解析するなら好きにしなさい。飲むかどうかも、君が決めなさい」
オスカルはそれ以上の説明を放棄し、再び椅子の背もたれに身を預けて目を閉じた。
(……何だ、これは?)
レオンの脳内システムが、その小さな硝子瓶を前にして演算を高速で回し始める。
(精神干渉の薬物か?それとも、私の毒性耐性を試すための監査なのか……?)
(あるいは、悪魔の実行ファイル(.exe)が世界樹のエキスとリソース競合を起こすかを見る、生体実験か……?)
深読みの網の目が脳内を埋め尽くしていく。裏の意図をスキャンしようとしても、目の前のオブジェクトは、知名度のある非常に高価な栄養ドリンクであることしか示さない。
(なぜ、説明しない。
なぜ、あなたが決めない。
なぜ、私に選ばせる)
完全なる自由の提示。それが、意味の確定に飢えたレオンにとって、何よりも不気味で、足元が崩れるほどの不安を掻き立てる。
(持ち帰るべきか?解析に回すか?
……いや、それでは叔父上を疑っていることになる)
何より、こんな不気味な火種を事務所に持ち帰れば、ヴァルプスが必ず不審に思い、余計な負荷を背負い込むことになる――。
そこまで思考が辿り着いた瞬間、レオンの脳内で、パチリとエラーの火花が散った。
レオンの目が据わる。
(……ずっと疑うくらいなら、今ここで処理する)
「いま、いただきます」
レオンは白銀の腕輪が滑り出る右手を伸ばし、円卓の上の小瓶を掴んだ。
カチ、とキャップを捻る。乾いた破断音が不自然なほど大きく響いた。
レオンは目をきつく閉じ、それを一息に、喉へと流し込んだ。
ほんのりと甘く、ほろ苦い新緑のような香気が鼻に抜け、乾ききったレオンの舌を伝い、喉を潤していく。安物の滋養強壮剤のような化学臭は一切ない。
飲み干した小瓶を静かに円卓へと戻すレオンを、オスカルは動かずに見つめていた。
「……ごちそうさまでした。本日の業務確認は、以上でよろしいでしょうか」
レオンは立ち上がり、深く優雅に一礼した。
胃の奥がじわりと温かい。理由の分からない不快感と共に、その魔力特有の熱だけが確かに残った。
「以上だ。……下がっていい」
オスカルの短い声を背中で受けながら、レオンは黒檀の扉へと歩き出す。
一歩ごとに、背中の汗が冷えていく。だが、その足取りは、入ってきた時よりもどこか落ち着いていた。




