『氷結の黒字決算(ファイナル・クローズ)』⑦
第7部:満期予測の演算停止
「――契約について、確認したい」
その言葉が、オスカルの形の良い唇から滑り落ちた。
レオンは困惑した思考を抱えたまま、円卓の下で組んでいた指先をかすかに強張らせる。
「……はい」
「君は今も、それが十月に執行されると考えているのか」
――十月。
その単語が空間に落ちた瞬間、レオンは背筋を不自然なほどまっすぐに伸ばしていた。
内側の動揺を無理やり封じ込める。それがレオンの肉体に余計な緊張を強いていた。
「……可能性としては」
「そうか」
オスカルは、手元のホログラムをすべて消す。ゆっくりと顔を上げ、正面からレオンの目を捉える。その動きは極めて緩やかで、威圧を与えるためのものでは決してなかった。ただ、目の前の相手から目を逸らさないための動作だった。
「なら、一つだけ訂正しておこう」
「……何でしょう」
「私は結論を急いでいない」
「……」
「十月まで、まだ時間がある」
オスカルの言葉が理解できなかった。一瞬、レオンは返答を失う。
急いでいない。その前提が、そもそも理解できなかった。
「それは」
レオンは喉の奥を震わせ、言葉を絞り出した。
「何を、判断材料にしているんですか」
「……判断?」
「私を、どうするつもりなんですか」
食い下がるとき、レオンの視線は、耐えかねたように机上の茶器へと落ちた。だが次の瞬間には、弾かれるようにオスカルへ戻る。
「どうもしない」
オスカルの声は、どこまでも平坦だった。
「少なくとも、君が考えている意味では」
「では、何なんです」
「君は十月の話になると、急に話を終わらせたがる」
「……そんなつもりはありません」
レオンはわずかに眉を寄せた。
「私は、契約の話をしています」
「……そうか」
オスカルはレオンを見る。その眼差しは、盤上の駒の行く末をただ淡々と眺めるもののようだった。
「……」
「だから、不思議なんだ」
オスカルの言葉が、そこで一度止まる。
「何がです」
「君は契約の満期を語るが、その先の話をしない」
「少なくとも、現在の議題ではありません」
レオンは円卓の下、膝の上で握りしめていた拳の爪を、さらに掌の肉へと深く食い込ませる。
「そうか」
「契約が終われば、それで十分です」
「君にとっては、そうなのだろう」
レオンは反論しかけて、言葉を失った。何かが引っかかった。だが、それが何なのか脳の演算が追いつかない。
視界の奥で、オスカルがふっと肩の力を抜いたように椅子の背もたれに体を預けた。
オスカルの視線が落ちたのは、完璧に調えられた黒檀の円卓の端――栄養ドリンクの小瓶だった。
その何気ない、あまりにも『ただの人間』らしい仕草に、レオンは理由の分からない苛立ちを覚えた。まるで、会議の途中で小休止でも挟むような態度だった。
自分は命を賭けた契約の話をしている。それなのに、オスカルだけが別の時間軸、別のものを見ている。そのズレが、どうにも我慢ならなかった。
「だが私には」
オスカルが、小瓶からゆっくりと視線を上げた。審判を下す神の目ではない。ただ、レオンの焦りを品定めするような、短い一瞥。
「君がずいぶん、急いでいるように見える」
次の瞬間、レオンは耐えきれなくなったように、ふいっと視線を斜め下へと逸らした。
(……また、それだ)
契約の話をしているはずなのに、いつの間にか自分の話になっている。
「……急いでません」
レオンは唇を引き絞り、隠しそびれた感情を滲ませたまま、強く、強く壁を睨んだ。




