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1魔貨の聖騎士 ― 価値ゼロCEOと悪魔の強制執行監査契約  作者: 暮夜すと
【シーズン2:本決算発表会編】Q1

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『氷結の黒字決算(ファイナル・クローズ)』⑥

第6部:監査権限の不法侵入ドメイン・エラー


 ロビーから漏れ聞こえていた笑い声やグラスの音は、通路を進むにつれて遠ざかり、やがて完全に消えた。 硝子と蒼銀の骨組みが誇るモダンな開放感は、この奥廊下には一切存在しない。

 影の中から、静かにヴァレリアンが姿を現した。彼はレオンに一瞥を投げて一礼すると、一切の物音を立てずに背を向けて歩き始める。

 チャコールグレーの背中を見つめながら歩くレオンは、そのあまりの「静寂」に微かに眉を寄せた。足音すら吸い込まれるようなこの空間は、ただの防音ではない。最高位AI『M.O.N.O』の不可視の領域ドメインに、すでに囚われているかのような錯覚を覚える。

 VIPのためだけに用意された、特別応接室の前でヴァレリアンが足を止めた。彼が彫像のように脇へ退くのと同時に、レオンは重厚な黒檀の扉の前に立つ。


 レオンは袖口を整えた。背中に張り付いた汗の冷たさが不快だったが、今さらどうにもならない。

 覚悟を決めるように一度だけ深く息を吐く。それから、硬い木肌に指関節を当て、扉を二度叩いた。


 ――コン。

 ――コン。


 叩いた自分の指先から、嫌な硬さと冷たさが脳へと突き抜ける。二度目の音が、わずかな躊躇いを孕んで濁った。


「……入れ」 


 低く、澄んだ声が返る。

 レオンはドアノブに手をかけた。


 網膜が真っ先に捕らえたのは、部屋の調度でも、空間の広さでもない。対面、部屋の奥に鎮座する、オスカルという男の視線――その一点だった。次いで、男の肉体の質量。微動だにしない肩、ホログラムを操作する指先の滑らかな動き。そこから放たれる「意図」のベクトルを、レオンの飢えた本能は瞬時に計測し、その輪郭を貪るように読み解こうとする。


 オスカルは、座ったままだった。扉が開いた音に、手元のホログラムから一瞬だけ視線を上げ、レオンの姿を認める。だが、そこに鋭い検分も、冷徹な評価もない。ただレオンの存在を確認しただけの短い一瞥。オスカルの視線は、すぐに流れるような手つきで操作される幾何学コードの山へと戻っていった。


「どうぞ」


 声が、静かに空間に落ちる。座れという命令ではない。来るなという拒絶でもない。ただ、レオンがそこに立ち、入ってくるという「状態」を、無条件に、かつ平坦に許可するだけの言葉。そのあまりの重力のなさに、レオンの爪がいちど掌の肉にめり込んだ。


 ……敵意はない。だが、明確な歓迎もない。そこにあるのは、底の知れない、ただ平坦な「業務継続」の意志だけだった。


 オスカルが座っている椅子。その手前にある、磨き上げられた黒檀の円卓。円卓の端に、あらかじめ誂えられた茶器のセットと、それにはひどく場違いな栄養ドリンクの小瓶がポツンと置かれている。

 完璧に統制されたオスカルの空間において、それはひどく俗っぽく、ありふれた、なんでもない異物だった。

 情報の点と線がレオンの脳内で激しく火花を散らし、答えを出せないまま、ようやくそれらを載せている円卓の全体像が、遅れて視界の中に確定した。


 レオンは静かに椅子を引いた。いつでも動けるよう浅く座り込んだその気配を、オスカルは視線すら向けずに受け流し、ただ自身の手元を動かし続けている。


「黒字は確認した」 


 対面に座るオスカルの口から出た最初の言葉は、極めて淡々としたものだった。

 ド・ラ・ノワール事務所が総力を挙げて勝ち取った決算の成果を、オスカルはまるで「天気の話」でもするかのように一瞬で通り過ぎる。


 レオンが努めて平静な顔をするなか、また相手のオスカルも手元のホログラムを軽く払う。それから、レオンの目をまっすぐに見据えた。


「M.O.N.Oの件から確認しよう」


「……はい」


 レオンは短く応じた。 


「事務所サーバー開設の際、M.O.N.Oを常駐させた件についてだ。

 私は事務所の安全性を優先した。

 ――君の許可を待つことで監査開始が遅れるなら、そのリスクは誰が負う?」


 レオンはゆっくりと口を開いた。


「……私は監査そのものを拒否したかったわけではありません」


「ほう」


 オスカルが、わずかに眉を動かす。

 レオンはその平坦な視線を受け止め、言葉を紡いだ。


「ただ、自分が管理責任を負うシステムに変更が加えられた事実を、後から知る状況は望みません」


「……監査への異議では、ないな」


「ありません」


「通知されなかったことが問題か」


「そうです」


「なるほど」


 短い沈黙が、二人の間に落ちた。


「君らしいな」


「……褒め言葉として、受け取るべきでしょうか」


「好きに、解釈しなさい」 


 オスカルは指先で黒檀の卓上を軽く叩いた。チッ、と爪の先が硬い音を立てる。


「……では整理しよう。私は対応の必要性を主張している。

 君は決定工程の透明性を求めている」


「はい」


「両立は可能だろう」


「……」 


 両立。その言葉に、レオンの思考が一瞬フリーズする。


「今後は通知手順を設ける。少なくとも、君が事後報告で知る形は避けよう」


「……ありがとうございます」


 自然と、レオンは礼を口にしていた。


「礼を言われるような話ではない」


「私にとっては、重要です」


 レオンの声は、少し低かった。


「……そうだろうな」 


 オスカルは一瞬、視線を指先に落とす。


「この件は終わりだ」


 オスカルはそこで、あっさりと話を切った。


「……承知しました」


 レオンは円卓の下で両手の指先を組み直す。 

 レオンが阻んだはずの「M.O.N.Oの侵入」という一大事が、ただの『運用の改善案』として、処理されていく。


「次へ進もう。――あのPVについてだが」


「申し訳ありません。現在は凍結済みです」


 即座に、レオンは事務的な謝罪を口にした。 


「それは承知している」


 短い沈黙。 


「私が聞きたいのは、なぜ作ったかではない。

 ……君はあれを保留にした。なぜ保留にした?」 


 レオンは、視線を落とした。焦点を失った網膜の端で、黒檀の木目がじわりと歪む。


「君は普段なら削除している。送信もしない。まして私には送らない」


「……」


「だが君は送った。そして保留にした。私はその判断工程に興味がある」


(……興味、だと?)


 レオンは微かに目を細めた。


「……保留にしたのは、主観が混入したためです」


 乾ききった声を、どうにかビジネストーンに調えて絞り出す。


「主観」


 オスカルは、その言葉の響きを確かめるように低く繰り返した。


「公開に値しないと、判断しました」


「……なるほど」


 オスカルは否定しない。レオンの「客観性を欠くから」というもっともらしいビジネスの言い訳を、ただの表面的なノイズとして受け流している。


「君は主観の混入そのものを問題視しているのか」


「当然です」


 オスカルの指先が、黒檀の卓上でぴたりと止まる。


「……なぜ?」


「客観性を欠くからです」


「本当にそれだけか」


「……」


「レオン」 


 名前を、呼ばれた。

 背筋に冷たい電流が走る。レオンは浅く息を吸ったあと、唇を動かした。


「……あれは、私の想定した成果物ではありませんでした」


「何が違った」


「完成品を見た時、意図していない情報が含まれていると判断しました」


「どのような」 


 レオンは答えない。答えれば、自分の輪郭が完全に崩れてしまう。脳内の防壁プロトコルが、オスカルの視線に削られていく。だが、オスカルも急かさない。静かにレオンの告白を待っている。その静かな重力が、やがてレオンの口を割らせた。

 もうただのログとして、放出するしかなかった。


「……願望です」


「そうか」


 レオンは思わず瞼を伏せた。


「本来、存在するべきではなかった、ものです」


「なぜ」


「……私が入れる予定のない、ログだったからです」


「だが、入った」


「……はい」


「そして君は、気付いた」


「……」


 オスカルは目を細め、淡い息を漏らした。


「興味深いな」


 興味深い。


(なぜそこを聞くんだ、このひとは)


 まるで未知の現象でも観測するような言い方に、レオンは、深く眉を顰めた。


「私は映像そのものより、そちらに興味がある。君は願望を抱いたことに動揺しているのではない。

 願望が存在していた事実を観測してしまったことに、動揺している」


「……」


「少なくとも」


 オスカルはそこで、すっと言葉を切った。

 レオンの心を白日の下に晒しておきながら、それを踏みつぶすことも、救い上げることもしない。


「君はまだ、自分自身のログを捨ててはいない」


 沈黙が満ちる。

 レオンは、自分がいつの間にか呼吸を止めていたことに気付いた。

 レオンはゆっくりと視線を上げた。

 

 なぜ、そこへ辿り着く。

 自分はPVの失敗について、説明していたはずだった。

 いつの間にか話題は、自分自身の話になっている。




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