『氷結の黒字決算(ファイナル・クローズ)』⑤
第5部:帰還の執行命令
「――それでは、質疑応答に移ります」
その後の展開は、もはやウイニングランに近かった。
理路整然とした回答が会場の熱狂を心地よく冷やし、『この会社は数字も盤石だ』という静謐な信頼感へと昇華させていく。
レオンは脳の二割で翌日の株価対策を再計算し、別の二割で完璧なビジネス敬語を組み立てていた。
質疑応答そのものは、すでに処理済みのタスクに近い。
問題は、残りの六割だった。そのすべてが、背後に座る叔父オスカルの存在に占有されている。
演台越しに浴びる投資家たちの熱視線よりも、背後から突き刺さる、たった一人の沈黙の方が、レオンにはよほど恐ろしかった。
アナリストたちの質問に機械的な微笑みで応じながら、視界の端で、ヴァルプスから送られてくるオスカルのバイタルログを確認する。
――波形は、凪。それが余計にレオンの神経を逆撫した。
十八時四十五分。
(……まだ十五分、ある)
レオンは乾いた喉を潤すように、一度だけ水を飲んだ。
時間が進めば進むほど、会場閉幕後に待つ『答え合わせ』の刻限も近づいてくる。
質疑応答は予定通り進行した。統制された三十分は一秒の狂いもなく消費され、やがて時計の針が十九時を指す。
レオンは内心の深い溜息を押し殺し、閉幕のためのマイクを静かに握り直した。
「――以上をもちまして、本日の決算発表会を終了とさせていただきます。
本日はお集まりいただき、誠にありがとうございました。
この後はロビーへと場所を移し、ささやかながら軽食とカクテルをご用意しております。
先ほど姫殿下が召し上がった我が社の自信作、『1魔貨パン』の試食も兼ねております。
どうぞ――夜のルテティアを、心ゆくまでお楽しみください」
最後にマイクへと視線を戻し、正面を見据えてから、深く優雅に一礼した。
レオンはステージを後にした。
鳴り止まない喝采を背中に浴びながら、舞台袖へと退く。一歩影に入った瞬間、仕立ての良い漆黒のスーツの裏で、シャツが冷たい汗でべっとりと背中に張り付いていることに気づいた。
「……レオン。着替えますか」
ヴァルプスが前に回り込み、静かに声をかけてくる。その顔は、リハーサル通りの大成功を収めた安堵に満ちていた。 盤上の数字を貪る相場師たちとの戦いは、勝利で幕を閉じた。だが、レオンにはまだ、本当の死線が残っている。
「いや……いい。着替えている時間はない」
レオンは短く首を振ると、ポケットから取り出したハンカチで額の汗を乱暴に拭った。
現在の時刻は、十九時五分。
投資家たちの夜はこれから優雅に始まるが、レオンにとっては一分一秒が、処刑台へのカウントダウンだった。あの『バイタルログ:凪』の怪物を一秒でも待たせるなど、それこそ自殺行為に等しいのではないか。
ゴクリ、と不快な音が喉の奥で鳴り、レオンは無意識に、汗ばんだ親指の爪をもう片方の指先で強く肉にめり込ませた。
「このまま行く。……ヴァルプス、ロビーの対応は任せたぞ」
「お戻りの時間予定は?」
「……終わったら連絡する」
「……迎えに行っても、いいですか」
「いや、必要ない。……必ず、戻る」
背筋を無理やり伸ばし、再び「完璧なCEO」の仮面を被り直したレオンは、薄暗い楽屋の廊下の奥へと向かう。
一歩踏み出すたび、布地を透かして、背中の汗がじっとりと冷えていくのが分かった。
不快極まりないはずなのに、恐怖のせいで感覚の麻痺した脳は、それすらも他人事のように冷徹に処理していく。
「……レオン」
ヴァルプスは、その小さくなっていく漆黒の背中を、静かに見つめていた。
伸ばしかけた右手が、宙で意味を失ったようにゆっくりと握りしめられ、スーツの脇へと戻る。
主が自分で選んだ場所へ向かっていく。それを自分はただ、華やかなロビーで待つことしかできない。
ヴァルプスは眼鏡の位置を直すと、溢れそうになる私情を殺し、投資家たちの待つ光の中へと反転した。




