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1魔貨の聖騎士 ― 価値ゼロCEOと悪魔の強制執行監査契約  作者: 暮夜すと
【シーズン2:本決算発表会編】Q1

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『氷結の黒字決算(ファイナル・クローズ)』④

第4部:不条理な咀嚼能力アメリア・テクスチャ


 雑居ビルの一室に急造されたダミーオフィスには、乱雑に置かれた中継サーバーと薄汚れたオフィス家具が並んでいた。 塗装のない剥き出しの狭い壁面にかけられた大型のモニターには、「4,200」という大暴落の赤字が部屋中を血のように赤く染めて光っていた。


「ハハッ、あと一時間でレオンの化けの皮が剥がれるぞ、フォラス!」


 勝利を確信して白黒のスーツを躍らせるオルカ。その傍らで、フォラスはすでに「次」の現場を見据えていた。いつでも立てる角度で腰掛けた安物ソファの革が、私物をポケットへ滑り込ませる彼の微かな動きを察知し、大げさに音を立てる。


 その時、私物を回収していたフォラスの手元で、現世の追跡を逃れるための個人端末が、低く不気味な電子音を立てた。同時に、鼓膜を直接素手で掴まれたかのような重圧が部屋の空気を支配する。悪魔界魔王本社からの、強制割り込み着信だった。


「っ……!」


 フォラスの背筋に冷たいものが走る。

 本能派専務バルナザールが現場担当の末端悪魔へ直接連絡を寄越すことなど、年に一度あるかどうかだ。しかも利害関係の重複については、すでに一度通達を受けている。

 それにもかかわらず再び連絡が来たということは――状況が動いた。


 猶予は一秒もない。フォラスは喉の震えを意思でねじ伏せ、端末の画面をスワイプすると、すぐさま完璧なビジネスボイスを発声した。


「……フォラスです」


『――フォラスくん。ちょっといいかね』 


「……お疲れ様です、バルナザール専務」


『現世世界ド・ラ・ノワール事務所のQ1決算データが、今、我が社の魔力監査を百パーセントクリーンに通過した。確定黒字だ』


 黒字。フォラスはその言葉を受け入れ、オルカに視線を向ける。オルカは部下たちと狂ったように肩を組み、足を踏み鳴らして踊り狂っている。


『一時間後、世界は反転する。

 ……利害関係の重複クラッシュについては前に言ったね?

 分かっているな。引き際を誤るなよ』


「……御意に。撤退ライン、これより再計算いたします」


 通信を切ったフォラスは、黒いサングラスを小さく直した。


「おいフォラス、お前もこっち来てシャンパンを飲めよ!

 レオンが泣く謝罪会見を、一緒に見守ろうぜ」


 オルカに呼ばれたフォラスは、端末をジャケットの内ポケットにしまい、スッと立ち上がる。


「――いえ、オルカ社長。私はお酒は結構です。

 それより一応、私からの、三度目の忠告なんですけど……」


「ああん?……なんだよ」


「今から始まるあの決算発表、絶対に『数字』は崩せませんよ。

 ……攻めあぐねた場合は、いつでも逃げられるように、私の側にいてくださいね?」


「ハッ、何言ってやがる。あんなクソ発表一つで、俺が作った流れに逆らえるわけねえだろ!

 ……それより始まるまでに、なんか酒のつまみでも買ってこい」


「……承知いたしました。行ってまいります」


 フォラスは部屋の隅に置かれていたアタッシュケースへ視線を向けた。

 オルカがこれまでグリーンメールで脅し取ってきた資産の一部を、フォラスの魔法で超圧縮した、いつでも持ち出せる夜逃げ用の命綱だ。一見するとただの軽いケースだが、中には数百億の価値が凝縮されている。


 フォラスとオルカが契約した内容は、あくまでオルカの逃走に関するものだ。

 戦況はすでにひっくり返ってしまった。しかしフォラスとしてはもう、自分の社内評価キャリアを積み上げるために、やるべきことをやるしかない。

 フォラスはオルカの生存ルートを計算しながら、帽子を深く被って額の角を隠した。


 部屋のドアを開け、その敷居を跨いだ瞬間、彼の気配は音もなく現世から掻き消えた。


--


 大鏡のグラン・ミロワールに続く重厚な扉が、厳かに、しかし一切の音を立てずに開かれた。


 ――フ、と会場全体の空気が物理的に数センチ沈み込むような、奇妙な気圧差が鼓膜を打つ。

 密閉された大空間へ、外の冷え切った空気が津波のように流れ込み、投資家たちの首筋を冷たく撫でた。いや、それはただの空気ではない。扉の向こうから溢れ出してきたのは、空間そのものを自重で歪ませるほどの、濃厚な魔力だった。


 扉を開け放ち、滑り込んできたのは、全てを圧殺するような圧倒的な影。

 頭部にそびえる大きな黒角が、すべての者の目を引いた。

 浅黒い肌に映える金瞳が、薄暗い会場を鋭く見据える。身に纏うのは、細い金のストライプが走る重厚なダブルのスーツ。仕立ての良いベストのポケットからは、彼のシンボルである「黄金の懐中時計」の太い鎖が、鈍い光を放ちながら這っていた。

 遅刻してきたその男は、ただ無言のまま、悠然と、しかしランウェイを歩くような洗練された足取りで、凍りついた投資家たちの間を割って進んでいく。男が横を通り過ぎるたび、投資家たちは物理的な重圧に押し潰されるような錯覚を覚え、風に吹かれた草の葉のようにしなって、身体を反らした。


 ド・ラ・ノワール事務所、CEO特別顧問バルナザール。

 レオンに浴びせられていた罵声の残香など、この男のまとう絶対的な魔圧の前には、塵に等しかった。

 レオンは、その黒い影が黒服たちの平伏する「零番席」へと吸い込まれ、傲然と長い脚を組むのを見届けた。 バルナザールは無言のまま金の双眸を細め、レオンを見つめる。口元が不敵に小さく歪む。それを見たレオンもかすかな笑みを唇にのせ、再び世界に向けて、朗々とその声を解き放った。


「――続きまして、アメリア姫殿下より、皆様へお言葉を賜ります」


 ステージの照明が一瞬にして落ち、息が詰まるほどの静寂が訪れる。次の瞬間、空間を切り裂くようにして、何万もの光の粒子が結晶の輝きを放ちながらレオンのすぐ隣へと収束し、等身大のホログラムとして結像した。

 普段は毎日定刻のSNS発信で手元や指先しか映さない彼女の、これが世界初となる「全身の生中継」であった。

 会場の投資家たちが一瞬にして息を呑み、次の瞬間、地鳴りのような歓声が爆発した。


 波打つ美しい紫の髪、煌めく紫の瞳。そして、彼女が本物の『宝飾の民』である証拠――頭部から伸びる、眩い二対の水晶角。

 幾重にも重なるドレスの裾は、ホログラムの淡い光を吸い込んで、まるで夜空に浮かぶ真珠のように優しく輝いている。


 技術班の演出がうまくいき、レオンは内心で胸を撫で下ろす。


 ――その瞬間だった。

 完璧なはずの立体映像に、奇妙な違和感が混じる。

 世界が息を呑む厳かな静寂の中、美しく結ばれているはずのアメリアの唇が、なぜかもごもごと、実に力強く動いているのだ。よく見れば、純白のレースに包まれた手元には、大胆にちぎられたパンの塊が握られている。


(……食べている) 


 レオンの端正な顔がわずかに引きつった。普通に挨拶だけしてくれればいいのに。しかしアメリアの紫の瞳は、レオンの横目で放たれた刺すような視線を真っ向から受け止め、悪びれもせずきらりと輝いた。


『――AI映像でも、死体でもありません。

 私は今、生きてリアルタイムで咀嚼しています』 


 言葉にせずとも、その堂々とした食べっぷりが「生存」を何より雄弁に証明していた。

 フェイクニュースを叩き潰すための、彼女なりの、あまりにも破天荒な一撃。

 アメリアはごくりと喉を鳴らしてパンをゆっくりと飲み下すと、ハンカチで口元を拭うことさえせず、何事もなかったかのように満面の笑みで口を開いた。


『現在、私に問題はありません。以上です』


 会場が、呆気にとられたような静寂に包まれた。


 世界初公開された全身ホログラムが、まさか「パンを咀嚼し、呑みこむ姿」になろうとは、百戦錬磨の投資家たちとて予想できるはずがない。


(……そう来たか)


 レオンは磨き抜かれた床を見下ろした。内心ではあれほど焦ったはずなのに、映り込む己の影は、ひどく静かに笑っているように見えた。

 腹は決まった。レオンは視線を上げ、右手を優雅に広げる。


「――姫殿下が」 


 レオンの声が、会場の静寂を鮮やかに打ち破る。


「姫殿下が召し上がったのは、市場影響が懸念された『1魔貨パン』です。

 初期の混乱による十億魔貨の損失はすべて計上済み。現在は安定化プロセスに基づき、ルテティア内での三店舗での試験運用を完了しております。

 追加の損失リスクは存在しません。

 この状態は、特別な施策ではなく、通常の流通として維持されています」 


 レオンは流れるような仕草で、アメリアへと腕を流す。


「我が陣営の最高資源たる姫殿下の、その健やかな食べっぷりこそ。この事業の健全性と、品質への絶対の自信を示す何よりの証明です」


 その言葉が引き金だった。

 一人の投資家が弾かれたように立ち上がり、続いて会場全体から割れんばかりのスタンディングオベーションが巻き起こった。




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