『無償の束縛』③
第3部:残された幻想
薄暗い酒場の隅で、レオンはグラスを静かに持ち上げた。
暖炉の火が揺れている。その光は空間全体を照らしているようでいて、彼の座る一角だけはわずかに取り残されている。
その事実に意味を見出すことはない。ただ、そういう配置なのだと理解しているだけだった。
グラスの中の液体が、わずかに揺れている。
揺れが止まるのを待つこともなく、レオンはそのまま口をつけた。
そのときだった。
「久しぶり、レオン」
軽い声。
空気の境界を越えて、そのまま侵入してくるような気安さ。
振り向かずとも分かる。
深緑の髪、過剰な装飾音、耳飾りの触れ合う微かな金属音。
その男は、レオンにとって厄介な存在、カイウス。彼はレオンの叔父であるオスカル直属の特殊任務課に所属する監視者。
「元気してた? まだあの悪魔と契約してるんだ?」
笑っている。
だがそれは友愛ではない。観察と検証に近い視線だった。
変質の過程を確かめに来た者の目。
「……いや、違うか。契約してるかどうかは、もう関係ないのか」
レオンはすぐには答えない。
沈黙のまま、視線だけをわずかに上げる。
カイウスと目が合う。
しかしその瞬間にも、レオンの内側には波は立たない。怒りも懐かしさも警戒も、薄い。
そこにあるのはただ、「カイウスがいる」という事実だけだった。
「……そうか」
短くそう言うと、再びグラスへ視線を戻す。
カイウスは一拍遅れて笑った。
その笑みの端に、わずかな違和が混じる。
「へえ。ほんとにそういう反応になったんだ。
それってさ……どういう状態?
叔父貴が心配するわけだよ」
椅子の背に手をかけ、距離を詰める。
耳飾り同士が触れ、乾いた金属音がひとつ鳴った。
この空間には、やや不釣り合いな音だった。
「昔はさ、もうちょい面白かったのに」
レオンはグラスを置く。
小さな音だったが、妙に明確に響く。
「……用件があるなら言え」
カイウスは一瞬だけ沈黙する。
それは外したことに気づいた者の間だった。
だがすぐに、口角を上げる。
「用件っていうかさ」
少し身を乗り出し、声を落とす。
「自由じゃなくなったって、自分でも思ってるでしょ?」
暖炉の音が、わずかに遠のいたように感じられた。
レオンは目を伏せる。
「……思っていない」
即答ではない。だが、迷いもない。
カイウスはそこで初めて、ほんのわずかにつまらなそうな表情を浮かべた。
「ふぅん」
そして続ける。
「じゃあ今の君って何なの」
レオンはグラスの縁を見る。
そこに映る青い瞳は、問いに反応する必要すら失っている。
「……関係ない」
言い切る。
カイウスは小さく息を吐いた。
「いや、違うな。
揺れてないんじゃない。揺れる場所が変わってる?」
その言葉には、嘲りとは別の色が混じっていた。
壊れなくなったものに対する、微かな困惑。
「それってさ、どこで判断してるの?」
その問いは、壊すために近づいていた者の戸惑いだった。
レオンは一瞬だけ、返答を失った。
言葉が出ないわけではない。
ただ、どの言葉も正しくないと判断されてしまう。
喉の奥で何かが引っかかる。
それを認識した瞬間にはもう、表情は元に戻っていた。
「……関係ない」
その言葉だけが、わずかに引っかかる。
だが、引っかかりはすぐに流れていった。
暖炉だけが音を続けている。
その沈黙を、足音が切る。
重く、一定で、迷いがない。
床そのものを従わせるような足音。
ヴァレリアンが、カイウスの背後に立つ。
「カイウス。だめだよ。
……私たちの行動原理を忘れるな」
短い命令。
カイウスは振り向かない。
「あーはいはい」
軽い返事。だが次の瞬間だけ、声がわずかに変質する。
「……ちょっとだけいいじゃん」
甘えにも似た、境界の曖昧な声だった。
ヴァレリアンは答えない。静かにただカイウスの肩に手を置く。
押さない。掴まない。そこにいると伝えるだけの接触。
「帰るぞ」
「まだいいじゃん」
カイウスはそう言いながら、ヴァレリアンの指に自分の指を絡める。
ヴァレリアンはそれをほどかない。ただ、わずかに目を伏せる。
すでに成立している関係だけが、そこにあった。
レオンはそれを見ている。
介入も評価もない。
ほんの少し。羨望に似た感情が生まれ、消えた。
やがてカイウスがこちらを振り向く。
「……これ、分類できないやつだな」
ヴァレリアンは一瞬だけ目を向け、小さく頷く。
二人は酒場の奥へ消える。
音が戻る。暖炉の音だけが残る。
レオンは空のグラスを持ち上げる。中身はもうない。
それでも、動作は止まらない。
しばらく、火を見ていた。
そこには何も起きていない。
ただ、関係だけがいくつか通過していった。
そしてその通過を観測し続けることこそが、いまのレオンの在り方だった。
※2026/05/22 大幅修正をしました。




