『無償の束縛』②
第2部:触れられぬもの
薄闇の中、雪がしんしんと降り積もる山道を歩きながら、レオンは手袋を嵌めた手で、宝石姫の細い手首を壊さないよう慎重に掴んでいた。
宝石姫の足元は雪に埋もれ、歩くたびにわずかに揺らぐ。それでも彼女は、言葉を持たないまま前へ進んでいく。視線はずっと、どこか遠くへ逸れたままだった。
「無理をしないで」
レオンは声をかける。その響きは優しいというより、距離を測るための確認に近かった。
「疲れたら、止まっていい」
宝石姫は小さく頷く。ただ、それが同意なのか習慣なのかは分からないまま、足は進み続ける。
手首を通して伝わる冷たさが、彼女の体力を少しずつ削っているのをレオンは感じていた。けれど、それを止める言葉は持っていない。
やがて雪に覆われた岩が崖上から転がり落ちる。
レオンは反射のように宝石姫を庇い、その視界を背中で覆う。
同時に、横から衝撃が割り込む。
ヴァルプスがそれを受けた。重さを殺しきれず、雪の上を転がる。
「ヴァルプス!」
呼び声に応えるように、彼はすぐに立ち上がる。泥と雪に濡れた腕を一瞬だけ隠し、それから何事もなかったように笑った。
その笑い方が、少しだけ歪んでいた。
レオンは何も言わず、そのまま歩き出す。
どこへ向かっているのかは、もう重要ではなかった。
風が強くなり、山道の輪郭が曖昧になるころ、小さな山小屋が見えた。
避難所だと分かる黄色い旗が、雪の中でかろうじて揺れている。
「……あそこに入ろう」
宝石姫は頷き、足を引きずるようにして歩いた。
扉を開けると、風の音だけが一気に遠のく。
静寂が落ちる。
木の壁、古い家具、湿った空気。そこには誰かが生きていた痕跡だけが残っていた。
レオンはまず宝石姫を暖炉の前に座らせる。薪を拾い、暖炉へと運んだ。
乾いた木を組み、火打ち石を打つ。
火花が落ちる。
暖かさが、少し遅れて広がった。
宝石姫は火の前で目を閉じている。
レオンは毛布を取り、彼女に渡すと彼女はそれを受け取り、何も言わずに体に巻きつけた。
ようやく息が深くなっているのが分かる。
レオンは周囲を整えながら、無意識にヴァルプスの方をちらりと見た。
ヴァルプスは少し離れた場所で、静かに靴を脱いでいた。
光が届きすぎない位置。
そこにいるのは、避けているのか、選んでいるのか分からなかった。
「さっきは……ありがとう」
言葉は自然に出たが、途中で少しだけ途切れた。
礼を言うことが正しいのかどうか、その判断が遅れている。
ヴァルプスは顔を上げる。
「守りたいだけです」
即答だった。その速さに、少しだけ救われるような、同時に重くなるような感覚が混ざる。
レオンは視線を落とした。
「……お前がそうしたいなら、それでいい」
そう言ってから、自分でもその言葉がどこに向かっているのか分からなくなる。
肯定でも拒絶でもない。ただ、形だけが残った。
ヴァルプスは一瞬だけ黙る。そして、静かに続ける。
「それでも、ボクはここにいます」
その言葉に、意味はついていない。ただ、事実として置かれたまま、空気の中に沈んだ。
レオンはそれ以上、何も言わなかった。
暖炉の火が揺れる。
揺れているのは火なのか、それともこの関係なのか、もう区別はつかなかった。
ただひとつだけ分かるのは、このままでも、まだ歩けてしまうということだった。
※2026/05/22 大幅修正をしました。




