『氷結の黒字決算(ファイナル・クローズ)』②
第2部:外貨の絶対障壁
二月十二日 十七時四十五分
開演まであと十五分となったグラン・ミロワール公会堂の大鏡の間は、数千人分の早口な雑談と、端末を狂ったように叩く打鍵音で埋め尽くされていた。
飛び交うのは、恐怖と悪意が混ざり合った、耳を刺すような騒音の嵐だ。全財産を失いかけた者たちの冷や汗と、胃酸の酸っぱい匂いが会場に満ちている。
手元の端末に映る株価チャートは、四十五分前の市場閉鎖の鐘とともに『4,200』の底にこびりついたまま完全に停止し、血のような赤色を激しく明滅させている。確定してしまった絶望的な数字を前に、投資家たちの指先は震え、怒号の一歩手前のうねりとなって硝子のドーム天井を揺らしていた。
だが、誰一人として席から立ち上がろうとする者はいない。
壁際に黒い彫像のように並ぶエトワール・ガードの警備兵たちが、鋭い視線で客席を威圧している。磨き上げられた硬化硝子の床のさらに下――そこに張り巡らされた、青白く脈打つ魔導回路が、彼らの放つ暴徒化寸前の「悪意」をいつでも炙り出そうと静かに目を光らせているからだ。発狂せんばかりの怒りを胸に抱きながらも、命惜しさに身を縮める投資家たちは、この冷徹な「規律の檻」を破ることはできない。
吊り天井から見下ろす巨大な機械時計の針が、秒刻みの処刑台のように進んでいく。投資家たちはただ、自らの運命を握る十八時の鐘の音を、息を潜めて待つことしかできなかった。
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ステージ横の薄暗い部屋の中。本来なら音響スタッフが座るべきコントロールブースは、床をのたうつ太い魔導光ファイバーと複数のホログラムディスプレイによって、臨時の「前線基地」へと変貌していた。
ブースの入り口には即応予備部隊が立ち塞がり、異様な緊迫感がそこを満たしている。
青白いホログラムの光に照らされたエンジニアたちの顔には脂汗が浮かび、九日の大暴落から丸三日不眠不休の指先は、悲鳴を上げるような速度で動き続けていた。
「定刻まであと十五分! 魔導光の供給ライン、まだ安定しません!」
目を泳がせたゲイルが悲鳴を上げる中、通信回線から響くマルヴェイの声だけが、不気味なほど静かに鼓膜を叩く。
『Gateway、無様に目を泳がせてないで会場内の魔導波を全ドメイン監視しなさい。
不審なパケットを検知したら即座に遮断』
「もうやってます!でも低気圧のせいで通信帯域が濁ってて、オルカの踏み台が絞り込めない!完全に後手に回ってます!」
『泣き言は聞き飽きたよ。Patch-05、バックボーンの防壁維持は持ちそう?
――Node-02、のろのろしてるとサーバーごと焼き切るよ。クローンを急いで』
通信の向こう側――事務所の地下ラボから、マルヴェイは冷徹にモニターを見上げながら、淡々とその無茶振りを飛ばしていた。それを公会堂の現場で叩きつけられながら、レイモンはホログラムディスプレイを睨みつけ、その冷酷な指示を現場の実務へ落とし込むべく死に物狂いで指先を振る。
コントロールブースの壮絶な怒号を遠目に、レオンは小さく息を吐く。
彼らが裏方で防壁を死守してくれているからこそ、自分は表舞台の暴風雨のなかへ打って出ることができる。言葉による感傷は不要だった。
レオンが右手を軽く持ち上げると、袖口から白銀の腕輪が金属音を立てて滑り出た。
『A.I.D.A』の分身であるその銀盤の上では、埋め込まれた青い魔導クリスタルの光に呼応するように、微細な幾何学模様の回路が網目のように走り、超高速で演算を回し続けている。だがその青い星は、外周防壁の崩壊とともに、泥のような赤色に侵食されかけていた。
A.I.D.Aがスタートアップのアラームを、短く鳴らす。
直後、その腕輪が重い駆動音を立てた。A.I.D.Aの腕輪に重なるようにして、ホログラムの幾何学コードが物質化し、不気味な銀と赤色のクリスタルで編まれたもう一つの腕輪が実体化していく。
マルヴェイがオルカのハッキングと低気圧の嵐を潜り抜けさせてここまで届けさせた、C.O.L.L.A.T.E.R.A.Lの『出張端末(単品)』だ。物理的な極小距離で直接脳を同期させた二つのAIは、圧倒的な演算速度で防壁を編み上げていく。
レオンは耳裏に仕込んだ魔導パッチに指を当てて展開させた。
視界が一転し、漆黒の宇宙へと変わる。
磨き上げられた大鏡の間にひしめく三千人の投資家たちが放つ無数の電波が、まるで夜空にまたたく星座のように、網膜の中で怪しく輝き始めた。人間の投資家たちが握るアセットの星々は、暴落の恐怖に狂い、金の火花をパチパチと散らしながら生き物のようにうねっている。その金色の混沌の底から、血のように赤いハッカーのノイズがレオンへ向けて一斉に触手を伸ばしていたが、レオンの手首で重なり合う二色の光――サファイアの盾とボルドールビーの牙が、それを凄まじい速度で噛み砕き、無効化していく。
レオンは、その二つの光のさらに頭上を見上げた。
公会堂の天頂、ネットワークの北極星の位置には、巨大な正四面体のアイコンが規則正しく回転していた。
オスカルが連れる最高位AI『M.O.N.O』の、圧倒的な質量を持った白銀光。それは今はまだ『完全待機(Idle)』として沈黙しているが、その絶対的な重力は、周囲の星々をいつでも強制隔離の檻に閉じ込められるだけの、静かな瞬きを放っている。
ネオンエメラルドの光が、流星のごとき速度で星々の間を駆け抜け、中継回線の暗号化を面白半分に寸断させていく。レオンが目を細めると、それは別の場所に移動して、消えた。
(……頼むから、M.O.N.OもP.A.N.D.O.R.Aも、大人しくしていてくれよ)
レオンは、胃のあたりが焼けるようなプレッシャーに耐えながら、ゆっくりと拳を握りしめた。
「レオンCEO、開演時間です。ステージへ」
スタッフたちが、重い防音扉を開ける。ゆっくりと両扉が開かれる。
レオンは乱れる呼吸を完璧に殺し、顔に冷徹なCEOの仮面を貼り付けた。
世界中の悪意と興味が絡み合う、あの光り輝く処刑台へと、彼はゆっくりと足を踏み出した。




