『親愛の非線形回帰(リ・アセスメント)』⑥
第6部:平穏の定常回路
レオンは革張りの椅子に深く背中を預け、逃げるように首を後ろに折った。
視界に飛び込んできたのは、天井を円く縁取るメダリオンだ。
宮殿を思わせる歴史的な漆喰の彫刻。脈々と受け継がれてきた「ノワール家」の重圧そのもののようなその意匠の中心から、冷たく吊り下げられているのは、漆黒の円環型の灯りだった。
伝統を守りながら、常に革新の光を灯し続ける――。それが、レオンがオスカルから刻まれた教えの一つだった。しかし今、白磁の天井で冷たく輝く光の輪は、自分を捕らえて離さない絞首刑の縄のようにも、自分を永遠に監視し続ける冷酷な「眼」のようにも見えた。
レオンは目を閉じる。
確実に、自分は傷ついた。
理由は分かっているはずだった。
だが、整理しようとするたびに思考が空転する。
オスカルは自分を否定しなかった。失敗作とも言わなかった。
その事実だけが、理解不能な異物のように胸の奥へ突き刺さっていた。
オスカルのメールに刺されてしまったと思ったその傷口から、堰を切ったように抑えきれない黒い感情が飛び出した。それはドロドロとした実体を持って脳内を駆け巡り、これまで彼を縛り付けていたはずのオスカルの幻影を追いかけ、その輪郭を内側から激しく崩壊させていく。
レオンは何度か深呼吸を繰り返すと、手の甲で額の汗を拭った。
(私ひとりでは、導き出せないのかも知れない)
レオンは、もう自分自身の判断だけで決められない定義がある可能性に行き着いた。
諦念を込めた視線を、ヴァルプスの後頭部に投げつける。
やってしまった、と思った。事前予告無しに、ヴァルプスへ負荷が飛んだに違いない。
「……ヴァルプス」
吐き出した声音は、ひどく乾いていた。
ヴァルプスは静かに顔を向ける。そのなんでもない報告待ちの顔に、レオンは理性を与えられた気がした。
世界がまだ、正常なままでそこに在るのだと、彼の佇まいが教えてくれるようだった。
レオンは椅子に座り直すと、背筋を伸ばして両手を組み上げる。いつもの、毅然としたCEOの形を強引になぞるように。
「その……飛んだ?」
「……いえ」
レオンは疑うように目を細めてみせたが、ヴァルプスは涼しい顔を固定していた。
数秒考え込んだあと、レオンは再び口を開く。
「ヴァルプス。……報告がある」
「……はい」
「事前に伝えていた叔父上の映画製作について。……いったん、凍結になった」
「そうですか」
「うん。それで、その……」
「はい」
「私は、叔父上と契約していることがある。……今も、継続中だ」
「……はい」
「その件について、私は少し、考え直したいことがあって。……昔の、私が勝手に決めたことなんだが」
レオンの組んだ指先に、思わず力がこもる。きゅ、と皮膚の擦れる音がした。
「ただ、今はまだ自分の中で整理ができていない。……決算後に、また改めて、説明させてくれ」
ヴァルプスは、レオンの「決算後」という言葉をそのまま受け止めるように、深く、静かに一度だけ頷いた。
「わかりました」
ヴァルプスの声音には、驚きも、詮索するような色も一切なかった。
いつもと変わらない、どこまでも静かで、レオンを安心させる平熱のトーン。
その響きだけで、レオンは自身でも驚くほど安堵した。
「……レオン」
名前を呼ばれ、レオンは僅かに肩を跳ねさせた。
「……なに」
その警戒を解くように、ヴァルプスは薄く微笑む。
「なにか、飲まれますか」
レオンは少し逡巡したあと、ヴァルプスを見返してぽつりと呟いた。
「……桃のアイスがいい」
「飲み物ではありませんが、いいでしょう。少々、お待ちください」
ヴァルプスが立ち上がる。その希望の品が、プライベートラウンジの冷凍庫に大切に保管されていることを、彼はよく知っていた。
廊下へ出る直前、ヴァルプスは振り返ってレオンの姿を見た。
彼は苦悶に満ちた顔で目を閉じていた。しかし、その歪んだ表情さえも、ヴァルプスには美しく見えた。
静かに扉を閉め、歩き出しながら、ヴァルプスは胸元を深く押さえた。
レオンからあの話を聞いている間、ずっと涼しい顔で受け止め続けていた重苦しい負荷──それを吐き出すように、小さく咳き込み、口もとを拭う。
──それでも。主人がいつでも背筋を伸ばしていられるように、自分はただ、揺るぎない日常としてここに在り続ける。
ひと呼吸おいて前を向いたヴァルプスの横顔は、外の嵐も、血族の呪縛さえも寄せ付けない。
その毅然とした佇まいは、どこまでも静かで、穏やかであった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




