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1魔貨の聖騎士 ― 価値ゼロCEOと悪魔の強制執行監査契約  作者: 暮夜すと
【シーズン2:本決算発表会編】Q1

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『親愛の非線形回帰(リ・アセスメント)』⑤

第5部:定義不変の揺らぎ(ノイズ・ログ)

 

 二月十日 一五時 


 頑強な硝子窓が、外の猛烈な低気圧に押されて、みしみしと微かに震えている。


 そしてまた、レオンの個人端末もひっきりなしに震えていた。

 画面を流れていくのは、他社のCEOたちから届く、親愛の仮面を被った『安否確認』の数々だ。

 通知が鳴るたびに、長い指先で素早く画面を開いては、淡々と画面をフリックして閉じる。レオンはその動作を何十回も繰り返していた。


 レオンの視界の端では、ヴァルプスが応接用のソファに腰掛けて電話対応をしている。その指示は淀みなく的確で、そこにあるのは仕事に徹する一人の男の背中だった。

 レオンはその背中を見つめたあと、そっと目を伏せて、再び端末を弄る。


 ──鳴り響いた特別なコール音に、レオンの長耳が微かに動いた。

 画面に浮かんだ【名前】を見た瞬間、彼は素早く端末を耳に当てた。


「私だ。……バルトロメ?」


 耳元に寄せた端末に向かって、レオンは低く問いかけた。


『……レオン。そちらの雨はどうだね』


 受話口から、いつもと変わらない気だるげな声音が流れてくる。


『残念だが、今日の指導には行けそうにないよ。

 この低気圧と大雨だろう? 連邦の交通網が完全に麻痺してしまっていてね』


「……わかった」


 レオンの声が、発した自分でも意外に思うほど、小さく空中に溶けた。

 天候の悪化という仕方のない理由であっても、バルトロメの指導を心待ちにしていたレオンには、すぐの切り替えなど到底できなかった。彼は未決済の書類へと視線を落とす。紙面に走る文字に意味を見いだせず、ただただ指を這わせた。


「……」


 相手から切断されるのを待つレオンの耳に、バルトロメから衣服を擦れ合わせるような微かな音が届く。


『仕方あるまい。

 ……そうだな。代わりに一つ、助言をしておこう』


 吐息のような声音が、レオンの鼓膜を優しく撫で上げた。


『君は、叔父上を理解しているつもりだ。叔父上も、同じだろう。

 そして君はまだ、叔父上を一人しか見ていない。

 ……二月十二日、よく見ておいで』


「それは。どういう、意味、バルトロメ──」


 問いかける声を遮るように、短い電子音が響き、通信は切れた。レオンは電話をかけなおそうと指を曲げ、動きを止めた。

 

「……」


 端末の中には、叔父上から届いたメールが未読のまま眠っている。

 未だにその本文を網膜に映すのを拒んでいた。

 そこにどれほど自分をえぐるような言葉が並んでいるか、読むまでもなく分かっていたからだ。


 一度深く吸い込んだ息を、レオンは音もなく、長い時間をかけて吐き出す。


 ──『君はまだ、叔父上を一人しか見ていない』 


 バルトロメの助言が、鼓膜の奥で何度もリフレインしていた。 

 レオンの指先が、端末の画面の上でぴたりと止まる。

 タップするだけのその僅かな距離が、今はまるで底なしの深淵のように遠い。

 いつもなら一瞬で下せる決断が、泥を流し込まれたように重く滞る。


 ザン、と窓を叩く激しい雨の音が、妙に耳についた。


 レオンは一度ヴァルプスの姿を探す。書類を確認しているヴァルプスに、声をかけようとしたが、逆に声をかけることでこれから行う動作が大仰になることを恐れた。


 深く、重い息を吐き出す。

 レオンは喉の奥を小さく鳴らし、逃げ出そうとする視線を強引に固定する。そして、己の恐怖をねじ伏せるように、冷たくなった親指に力を込めて画面を強く叩いた。 


 ──青い光が、レオンの顔を照らし出す。



Re: 【共有】DPA初期検証素材(外部マル秘)

送信者:オスカル・ド・ラ・ノワール

受信者:レオン・ド・ラ・ノワール


 レオン。


 資料は確認した。

 まず結論から言えば、私はこの映像を「失敗作」とは評価しない。

 むしろ、現時点の君の状態が極めて高精度に記録された、非常に誠実なログだと認識している。


 君は説明文の中で、

「組織論」

「市場耐性」

「構造実験」

 といった定義を与えようとしているが、本質はそこではないだろう。


 重要なのは、君が完全に制御されたCEOとしてではなく、

 定義不能な揺らぎを含んだまま映像内へ出現している点にある。


 興味深い。


 特に、君自身がその揺らぎを「ノイズ」と判定しているにもかかわらず、最終的に除去しなかったこと。

 いや、正確には。

 除去できなかった、と表現すべきか。


 現定義と実挙動に差異がある。

 再評価が必要だろう。


 安心しなさい。

 私はこの映像を外部へ流用するつもりはない。


 ただし、君が考えている以上に、この資料は生存側へ偏っている。

 少なくとも、完全終了を前提とした人間のログには見えない。


 ……よく送ってくれた。


 続きは二月十二日に。



 

 最後のピリオドまで目を通した瞬間、レオンの肌からどっと冷たい汗が噴き出した。

 じわじわと滲む脂汗がこめかみを伝い、首筋を濡らしていく。

 脳裏に、激しい拒絶のノイズが走る。端末を持つ手のひらが、目に見えて震え始めた。レオンは縋るように、慌ててヴァルプスの姿を探した。


 いつの間にか電話を終えていたヴァルプスは、応接用のソファに深く腰掛け、美しい所作で紅茶の入った磁器のカップを傾けていた。

 彼の端正な仕立てのスーツには微塵の皺も作られてはいない。規則正しく揃えられた長い脚と、微動だにしない静謐な横顔は、まるで外の嵐から切り離されたかのように、どこまでも穏やかで気品に満ちていた。

 動揺したレオンの心は、お茶を飲むヴァルプスの姿にすら安定を求めようとする。


「……ヴァルプス」


 名前を呼ばれ、ヴァルプスは手元からゆっくりと顔を上げ、穏やかな視線をレオンに向けた。


「……はい?」


「なにも、問題はない?」


「いえ、とくには」


「……そう」


 レオンは意識的に口元の筋肉を動かし、歪な笑みの形を作って見せてから、逃げるようにヴァルプスから視線を外した。


 一度きつく目を閉じ、思考の暴走をねじ伏せる。そうしてもう一度、恐る恐るメールの文面を読み直した。

 端正な顔を端末の画面へ異様なほど近づけ、文字の一画一画を凝視する。その姿は、普段の彼を知る者が見れば、あまりの余裕のなさに挙動不審とさえ映るだろう。

 レオンは震える指先を口元にあて、胸の動悸を抑えつけるように浅い呼吸を繰り返す。


(……おかしい。叔父上ならもっと、もっと、私を査定するはずだ。

 なぜ私を失敗作と言わない? なぜ私を否定しない?なぜ、続きは十二日にと言う……)


 ──なぜ、私の評価を保留するんだ。


 胸の奥から湧き上がるのは、光を見出したような救いではなかった。

 自分がよく知っているはずの、自分を閉じ込めた「絶対的な檻の主」の輪郭が、足元からぐにゃりと歪んでいくような、底知れない恐れ。


 ──『君はまだ、叔父上を一人しか見ていない』


 バルトロメの言葉が、最悪のタイミングで脳内にフラッシュバックする。

 オスカルは、本当に自分が思っているような人間なのか。解けない数式を突きつけられた子供のように、レオンは青い瞳を激しく彷徨わせ、ただただ、静かな混乱の深淵へと叩き落とされていた。

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