『親愛の非線形回帰(リ・アセスメント)』④
第4部:過負荷の熱伝導
二月十日 八時四十五分
静謐な電子音が響き、魔導昇降機の扉が滑らかに左右へ開いた。
十二階・最高執行フロア。
階下の喧騒や大嵐の地鳴りが嘘のように消え去ったその廊下には、空気清浄機の稼働音と、淹れ立ての珈琲の残香が静かに漂っていた。
ジルベールがどんなに力を込めて踏み出しても、ふかふかの銀の絨毯は優しく彼を吸収した。
護衛のひとりとの短い質疑応答のあと、ジルベールはCEO執務室に案内される。
防音扉を静かに押し開け、ジルベールは室内に滑り込んだ。
「失礼致します」
極めて丁寧な一礼。しかし、顔を上げたジルベールのセージ・グリーンの瞳は、力強い輝きを放っていた。
「レオン様。
市場を開く前に、広報および投資家対応の最高責任者として直訴に参りました!
今すぐ、十二日の第一四半期決算発表を『完全オンライン開催』へと切り替える決断を下してください!」
執務机の奥、遮光カーテンの隙間から差し込むかすかな光の中で、黒いスーツを纏ったレオンが静かに顔を上げた。
レオンの傍らには、彼と同じ漆黒の仕立てに身を包んだヴァルプスが直立し、すべてを俯瞰するように佇んでいる。
「おはようございます、ジルベール。随分と賑やかな挨拶だね」
レオンは青い瞳をわずかに細め、慌てる部下を穏やかに見据えた。
立ち止まったジルベールを足元から頭の先まで品定めするように見据えてから、手元の万年筆を、微かに青く光るデスクペンスタンドへそっと差し込んだ。
それから、会話を促すように、椅子の背から体を起こして姿勢を正す。
「おはよう、ございます……」
その清廉な双眸に気圧されそうになりながらも、ジルベールは手元の端末の画面を掲げ、さらに言葉を畳み掛けた。
「賑やかどころでは、ありません。
九時からの市場開始を前に、外はルテティア知事が警告する大雨・洪水オレンジ警報、ネットはグリッチくんが放流したレオン様の写真のせいで大炎上、我が社の株価は垂直落下中です。
メイ先生は法的な数字はロック済だと仰いましたが、レオン様、安心するのは早すぎます。
市場は『数字(結果)』だけで動くものではありません! 心理と信頼で動くのです!」
それは、広報のトップとしての、鋭い論破の刃だった。
「今、ネットで株を投げ売りしているのは、十二日の会場に来られない世界中の一般投資家たちです。
彼らは自宅でパニックを起こしている。リアル開催にこだわって三千人のVIPだけを優遇しても、彼ら大衆の『恐怖の心理』をオンラインで今すぐ安心させなければ、会社の底値は完全に破壊されます」
息を乱しながら捲し立てたジルベールの言葉を、レオンは静かに受け止めていた。いちど、ゆるやかに頷いて見せる。
「素晴らしい分析だ、ジルベール。
さすがは我が社の広報部長、市場の『恐怖』をよく理解している。……でもね」
レオンはフッと、柔らかな笑みを唇の端に浮かべた。
「大衆の混乱は、私の計算の『燃料』に過ぎないんだ。
彼らが恐怖で株を投げ売れば売り出すほど、オルカは勝利を確信して、さらにありったけの空売りを仕掛けてくるだろう?」
「え……?」
「私はね、ジルベール。
オルカの『強欲』と、大衆の『恐怖』という、最も裏切らない冷徹な行動原理をそのまま利用させてもらうつもりなんだ」
レオンは両手を組み、静かにジルベールを見据えた。その青い瞳には、一切の揺らぎがない。
「十二日。大嵐を乗り越えて会場に集まった三千人のVIPの前で、私がロックされた数字と真実を突きつけた瞬間、何が起こると思う?
──『踏み上げ(ショートスクイーズ)』だ。会場の生の驚愕と熱狂は、カメラを通じて世界中の画面へと伝播し、恐怖していた大衆を『狂乱の買い(パニックバイ)』へと一転させる。
オルカは買い戻しが追いつかずに破滅し、投げ売られた株は、彼等の屍を肥料にして、高値へと爆発的に跳ね上がる。その大逆転の劇的な舞台には、オンラインの画面越しではない、三千人の『生の熱狂』という現実のうねりが絶対に不可欠なんだよ」
次元が違っていた。
ジルベールが株価の暴落阻止をと、必死に守ろうとしていたもの全てが、レオンにとっては敵を誘い込んで一網打尽にするための「罠の餌」に過ぎなかったのだ。
「君が本気で焦り、本気で防戦に奔走しているその姿こそが、オルカに『作戦は成功している』と確信させる最高のシグナルになるんだよ」
「そんな……私は囮だったと。では……いえ。オンライン開催への切り替えは……」
「却下だ。理由は十二日の朝には雨が上がるから。
──我が社の勝利の確率にして、八十八パーセントだ」
八十八パーセント。それは天気予報の数字なのか、それともこの怪物が仕掛けた罠の成功率なのか。
ジルベールは息継ぎをするように口を開き、一歩足を前に出した。ヴァルプスがそれを見咎めるようにレオンの真横に立つ。
ジルベールはズボンのポケットから湿ったハンカチを取り出すと、レオンという存在への底知れぬ恐怖を誤魔化すように、額に数度当てて、それから息を吐いた。
勝利するのか、とは問えなかった。
「……レオン様、なぜこの計画を事前に私に共有してくださらなかったのですか」
ジルベールの絞り出すような言葉に、レオンはペンスタンドの青い光を見つめ、それからジルベールに視線を流す。
「あらかじめ伝えてしまっては、君の優秀な頭脳は『焦る演技』をしてしまうだろう?
プロのファンドの目は、偽物のシグナルなど一瞬で見破る。
……現時点では、スタッフの設営も、マルヴェイのインフラ防衛も、すべて計算通りに進んでいる。取引先への説明も完了している。
だからこそ、君には本気で狼狽してもらう必要があった」
ジルベールはガクリと肩を落とし、前かがみになってハンカチを握りしめた。安堵と諦念と不安が胸に渦を巻き、ジルベールの巻き毛も大きく揺れる。透明なフィルムに包まれた一粒の白い飴が、音もなく絨毯の上へ転がり落ちた。
レオンは一度ヴァルプスを見上げたあと、椅子を引いて立ち上がった。項垂れるジルベールのもとに、規則正しい歩みで近寄る。
「……ジルベール、君が広報として、動いてくれたことに感謝している」
レオンはしゃがみこみ、床に落ちた飴を拾い上げたあと、考え込むように顎に手をあてた。
ほんの少し困ったようにジルベールの顔を覗き込んで、手を振って顔を上げるように促す。
「……走らせて、悪かったね」
レオンはためらいがちに両手を伸ばすと、項垂れるジルベールの両肩を少し硬い動きで掴んだ。
親しい者を労うときのような、だがどこか儀式めいた仕草で、ジルベールのセージ・グリーンの瞳をじっと覗き込む。
「レオン様……」
「……私はね。君がいつも美しい詩を詠むように語ってくれる『家族愛』や『他人への情』といった、不確かで曖昧なものの計算式が、どうしても脳内でエラーを起こすんだ。
いや。それっぽい再現は、規律として出力できるんだが。
……私の内側の、何かの回路が、それを拒絶しているらしい」
レオンの青い瞳がわずかに曇る。だがジルベールが瞬きをしたあとには金の砂を散らした澄んだ青に変わっていた。
「……だが、だからこそ。その心理で動く大衆を把握し、我が社の防波堤になれるのは、社内で君という唯一のヒューマン・インターフェースだけなんだよ。
私は君の『広報としての絶対的な出力』は100%信用している」
レオンはぽんぽんとジルベールの肩を優しく叩いてから、ジルベールの右手をそっと掴んだ。
上向かせられたジルベールの手のひらに、乾いた感触が乗る。
ジルベールは見下ろす。自分の汗ばんだ手のひらの中には、マルヴェイがくれた白い飴と、レオンが足したもう一つの黄色い飴が重なっていた。
「……だから、ジルベール。この地獄の数日間に、最後まで付き合ってくれるね?」
レオンの問いかけに、ジルベールはしばらく呆然と立ち尽くしていた。
レオンのさらりとした指先の感触を気にしたときには、もうレオンはジルベールから身を離していた。
「……本当に、あなたという人は」
ジルベールの唇から、張り詰めていた緊張を溶かすような、小さな苦笑が漏れた。
レオンの青い瞳が、肯定を返されたAIのように、かすかに和らぐ。この男なりにジルベールを気にかけているのだと感じ、ジルベールの胸に鈍痛が走る。
自分の泥臭い父親としての視点が、この冷徹な天才の唯一の死角を補う盾になるのかもしれないと、ジルベールは思った。
ふと視線を感じる。身長が高いくせに存在だけは希薄にしたヴァルプスの赤い瞳が、静かにジルベールに向けられていた。
ヴァルプスはジルベールに小さく一礼すると、レオンの背中を見つめる。彼はもうレオンから目を離さなかった。
ジルベールはズボンのポケットに湿ったハンカチを突っ込むと、シワだらけのシャツを軽く伸ばし、歪んだタイをぐっと力強く締め直した。
背筋を伸ばして前髪の巻き毛の乱れを整える。そのセージ・グリーンの瞳には、オフィスに駆け込んだ時の焦燥ではなく、プロの広報としての誇りが滲んでいる。
「理解できなくて結構ですよ、レオン様。
その代わり、次回からあなたの把握しかねる『曖昧な大衆のコントロール』は、できるだけ共有していただきたい」
レオンはしばし逡巡したそぶりを見せたあと、鷹揚に頷いた。
「……わかった」
ジルベールは口の端を上げ、不敵に笑ってみせた。
「では、とりあえず。私はいまから朝食を取りシャワーを浴びて。グリッチくんを叱ってきます」
ジルベールは、今度はいつもの完璧な所作で、深く、優雅に一礼してみせた。
それから、ズボンのポケットに二つの飴をそっと押し込み、レオンに向けて悪戯っぽくウインクをする。
「十二日の朝まで、完璧な『騙され役』を演じきってみせましょう。──市場の恐怖を、あなたの最高の燃料にするために」
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ジルベールは役員用のシャワー室で温水を浴び、徹夜の澱を洗い流した。
ほかほかと温かな空気に包まれた身体で広報室に戻り、壁面をフラットに覆うクローゼットを開ける。
ハンガーから新しい着替えのシャツを取り出して腕を通すと、自宅で使っている洗剤の香りが鼻を抜けた。
そこに愛しい家庭の気配を見出したジルベールは、机の上の端末へ手を伸ばす。
まだ少し濡れた髪のまま画面を開き、娘からのメッセージを見つめる。
ジルベールはフッと口元を緩めると、セージ・グリーンの瞳をきらめかせ、流れるような手つきで文字を打ち込んだ。
『そんなわけないだろう。パパはね、世界で一番聡明な社長の『盾』として、いま会社を守っているんだ。
外はひどい雨だけれど、私の心はちっとも負けていないよ。
十二日の朝には、この雨も絶対に上がる。だからパパを信じて、温かくして待っていなさい』
優雅に前髪をかき上げたあと、ゆっくりと送信ボタンを押す。
支配者の絶対的な強運と冷徹さを信じ、広報部長の、十二日の決算当日に向けた本当の籠城戦が、ここに幕を開けた。




