『親愛の非線形回帰(リ・アセスメント)』③
第3部:局所的飽和
二月十日 八時三十分
鉄が擦れる重苦しい音を立てて、魔導昇降機の扉が開いた。
地下一階・戦術システム防衛ラボ。
地上階の優雅な内装とは一転し、そこは無数の魔導サーバーが重低音を響かせ、壁一面に張り巡らされたモニターが不気味な青い光を放つ、冷徹な電脳の要塞だった。
「ゼェ、ゼェ……マルヴェイ様ァーーー!!!公式SNSの写真を今すぐ非公開に……ッ!」
部屋に飛び込んだジルベールの声を、細身の影が遮った。
このラボの青暗い光に溶け込むような、墨黒の長袍。その袖を几帳面に数回折り返し、白い腕を露出させながら、マルヴェイがふわりと薄桃色の髪を揺らした。髪の隙間から、蛇のような翡翠の瞳でジルベールを射抜く。
「──騒々しいですね。私のラボの防音壁を突き破る気ですか?」
耳に心地よい、しかし背筋が凍るほど甘く冷ややかな声だった。マルヴェイはキーボードを叩く指を一切止めず、口だけを動かす。
「あの写真を消せ? 脳味噌の容量までハネているんですか……ジルベール。
結論から言います。『消せません』。
あの公式声明のマスターキーは、現在レオンCEOと、あのバズ喰いの妖精の二人に完全暗号化されて握られている。
今回に限っては、私を以てしても、力技で書き換えるには最短で四十八時間かかる。つまり九時の市場開始には一秒たりとも間に合わない。論理的破綻です」
「そ、そんな! あなたは最強のセキュリティでしょう!? バックドアから侵入してシステムを書き換えるくらい……」
「ハッ、滑稽な寝言は蓮の葉の上だけにしてください」
マルヴェイは小さく鼻で笑い、端末から一瞬だけ視線を外すと、画面のグラフを鋭く指差した。
「今、このラボが受けているオルカからのサイバー攻撃は秒間一億二千万パケット。
同時に、外の『N-13』による雨量データから逆算すると、我がビルの地下排水ポンプの負荷率は現在八十八%。
あと三分で十階のリーガル魔導書が熱暴走を起こす。
私は今、オルカのハッカーどもの首をハッキングで絞め落としながら、同時にこのビルが床下浸水で物理的に全損するのを防いでいるんです」
マルヴェイは黒い爪をきらめかせ、わざと音を鳴らすように画面を指先で叩いた。
「感情論としては、今すぐあなたをこの嵐の中に放り出して、その渦を巻いた栗毛がどれほどの風速でちぎれるか観察したいところです。
……分析結果としては、あなたの相手をしている一秒ごとに、我が社の防御壁が0.2%ずつ摩耗している」
マルヴェイは端末の画面を閉じ、ジルベールを一瞥した。
「用が済んだら、一歩でも早く出ていってください。
あなたのシワだらけのシャツから漂う生乾きの匂いのせいで、私のサーバーの冷却効率が落ちる。
画像を消したければ、最上階の支配者の喉元に直接ナイフでも突きつけて許可を奪ってくることです。
……ああ、それと」
マルヴェイの唇の端が、不気味に、甘く吊り上がった。
「部下の回線を全切断したそうですね。……素晴らしい脆弱性対策です。無能の割には、よく私を喜ばせる地雷を埋めてくれました。評価に値しますよ」
「ひっ……!」
どこから漏れたのか、すでに自分の「回線切断指示」がマルヴェイに筒抜けになっている恐怖に、ジルベールは短い悲鳴を上げた。
「では、失礼します!」
「……待って」
これ以上この底なし沼の蛇と一緒にいては精神が持たない。
マルヴェイに背を向けたところで、マルヴェイに呼び止められる。
おそるおそる振り返ったジルベールのよれたシャツの胸ポケットに、個包装された白い飴を滑り込ませた。
「マルヴェイ様、これは……」
「……なくさないように」
マルヴェイは意味ありげな言葉を投げたあと、それからはもうジルベールを見なかった。
「……失礼します!」
ジルベールは脱兎の如くラボを飛び出し、再び魔導昇降機へと転がり込んだ。
目指すは最上階、十二階のレオンCEOのもとだ。
魔導昇降機の中で髪を弄りながら、ジルベールは首からかけた社員証に汚れがないかを気にした。
四階に到達したところで、重厚な金属扉が左右に開く。足元に広がるのはサファイア・ネイビーの石畳と、それを固く踏みしめる黒い編み上げブーツの群れ。
警戒態勢の即応部隊に囲まれ、ジルベールは平静を装いながら社員証を提示する。
「CEOに、会いに行く」
視認と探知機で執拗なチェックをされたあと、ジルベールは隊員たちから敬礼を受ける。
「……社員証を、確認しました」
次の階に行く魔導昇降機まで、案内される。途中のゲートをくぐる瞬間、耳の奥で「キーン」という高周波の検疫音が鳴った。
そうして次にジルベールが向かう先は、──十一階、戦略法務局。
部屋中にうずたかく積まれた契約書の巻物と、ホログラムの巨大な魔導書が、ネオンオレンジに淡く光り輝いている。
その光を浴びながら、秘書たちが右往左往し、大手の投資家たち向けの応対を飛ばしあっている。
ジルベールの心にいいようのない同情と気まずさが浮かび、じっとりと固定されていく。
歩みを進めた先。世界中の法改正を二十四時間監視するそのフロアの中央で、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせた弁護士、メイがジルベールを待ち構えていた。
「……ジルベール広報部長。なにか御用ですか」
執務机の奥で眼鏡のブリッジを押し上げたメイは、山積みのスクロールから視線を外すことすらしない。
「レオン様に、十二日の第一四半期決算発表を『完全オンライン開催』へと切り替える提案をしたい」
「……十二日の決算はすでに法的なプロトコルが完了しています。
あなたのオンライン開催の提案など、今のCEOの計画には不要です。お引き取りを」
冷たく突き放され、ジルベールはタイを握りしめて一歩踏み出した。
セージ・グリーンの瞳が、混乱を超えてギラリと座る。
「必要か不要かを決めるのはレオン様です、メイ先生!
あなたは世界中の法律を書き換えられても、ルテティアの物理的な『大雨・洪水オレンジ警報』は書き換えられないでしょう!」
「……それが何か?」
「大アリですよ! 国の警告を無視して三千人をリアルに集め、もし道中で投資家に死者が出たらどうするんです!
危険を予見できたのに回避しなかったとして、レオン様が『善管注意義務違反』で株主代表訴訟の被告席に立たされます!
さらにグリッチくんのあのポエム写真のせいで、証券取引委員会からは『風説の流布による市場操作』の疑いをかける可能性だってある!
十階がいくら法的に無敵でも、我が社の社会的信用が死ねば契約書はただの紙切れだ!
法務のトップとして、CEOが法廷に引きずり出されるリスクを放置するおつもりですか!?」
ジルベールの必死の、しかし法的な核心を突いた屁理屈に、メイはほんの一瞬、眼鏡の奥の眉をひそめた。
手元の魔導書がパタンと閉じる。
「……相変わらず、往生際の悪い広報部長ですね」
メイは面倒そうに息を吐くと、顎でその先の魔導昇降機を指し示した。
「五分だけ時間をあげます。それまでにCEOを説得できなければ、あなたを社内秩序乱出し罪で四階の『待機室』に強制送行しますから」
「感謝しますッ……!」
メイ付きの部下から簡易通行証を受け取ると、ジルベールはメイに一礼をして身体を反転させる。
これでいい。地獄のマルヴェイ、鉄壁のメイを突破し、ついに最上階へと至る「五分間の通行証」をもぎ取ったのだ。
魔導昇降機が十一階を通過し、いよいよ十二階、支配者たちの待つ聖域へと急上昇していく。
汗にまみれ、寝癖をハネ散らかした広報部長の孤独な道は、いま最高潮を迎えようとしていた。




