『親愛の非線形回帰(リ・アセスメント)』②
第2部:市場の動的平衡
二月十日 八時
ドサリ、という音とともに、ジルベール・マランは自分が冷たい床に落ちた衝撃で目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた自宅の天井ではなく、ド・ラ・ノワール事務所三階・ウェルネスセンターの無機質な壁だった。
昨夜、『オルカ・ショート・パートナーズ』の仕掛けたフェイクニュースによる株価暴落。それに連動して、レオンから送りつけられた『これより七十二時間、公式アカウントの権限を凍結し、広報部は通信の防波堤として籠城せよ』という事実上の全権剥奪(宣戦布告)メール。
極めつけに、ニュースを見た家族から送られてきた十二歳の娘からの『パパ、パパの会社って本当に詐欺を働いていたの?』という遠慮のない仕事非難のメッセージ。
広報のプロとしての敗北、主君からの非情な命令、そして家庭内での社会的死。このトリプルショックを受け、倒れ込むようにして意識を失った――いや、気絶していたのだ。
外からは、窓硝子を激しく叩きつける重苦しい雨音が聞こえている。
長雨の湿気と自身の寝汗のせいで、お気に入りの高級シャツは寝返りのたびにシワだらけになり、どこか生乾きの匂いを放っている。
「う、うう……私の美しいチェスナット・ブラウンの巻き毛が、寝癖でとんでもないことに……」
節々が痛む体で起き上がり、セージ・グリーンの瞳をこすりながら手鏡を覗いていた、まさにその時だった。
ジルベールの個人端末が不気味な警告音を鳴らした。
内務省、およびルテティア知事からの緊急一斉通達だ。
『――ルテティア二区を含む広範囲に【大雨・洪水オレンジ警報】を発令。
各企業は従業員の安全を最優先し、出社制限またはリモートワークへの移行を強く推奨する。
また、本日より十二日木曜日にかけて超大型の低気圧『N-13ニルヴァ型』の接近に伴い、最高警戒レベルへの引き上げを予定。
生身の外出は極めて危険であり――』
画面に浮かぶ赤オレンジ色の警告文字を、ジルベールは凝視した。
「国が『会社に行くな、外に出るな』と言っている。
……こりゃいかん!」
ジルベールは高級ハンカチを握りしめ、長雨の湿気でハネてしまった髪を撫でつけながら立ち上がった。
魔導昇降機を待つ時間すら惜しく、生乾きのネクタイを引っ掴んで階段を駆け上がり、三階の広報室の扉を蹴破る。
室内には、自宅から魔導ネットワークを繋いでいる部下たちの、悲鳴に近い音声通信が飛び交っていた。
『部長! 目が覚めましたか!?』
スピーカーから部下の焦った声が響く。
『九時からの市場開始を前に、公式アカウントが大変なことになっています!
グリッチくんが勝手にシステムをバイパスして、公式声明を放流しました!』
「なんだと!?」
ジルベールが慌てて端末を開くと、自社の名前が世界トレンドの一位に君臨していた。
「『市場の憶測に関する公式声明。現在、一部メディアで報道されている風説について、我が社は一切の関与を否定します。
ルテティアの皆様、窓の外の豪雨に惑わされないでください。
真実は常に、嵐の後に明かされるものです。
全ての答えは、二月一二日のQ1決算発表にてご報告いたします』……って、な、なんだこれは!?」
画面に添付されていたのは、完璧な仕立てのシャツを纏い、タイを外した気怠げな姿で冷徹に資料を見つめる、絵画のように美しいレオンCEOのモノクロ写真だった。
一ピクセルの隙もなく『綺麗な嘘』として演出し直された、破壊的に顔が良い主君の姿に、ジルベールはセージ・グリーンの瞳を激しく揺らす。
「文面は……文面は確かに格式高い!
だが、この大緊急時にCEOのグラビア写真を載せる奴があるか!
ネットの考察班と経済記者が尊死して、回線が物理的に破裂する!」
ジルベールは頭を抱えて叫んだ。
モニターで九分割表示された部下たちが、それぞれ調査データをジルベールに送信する。
『それだけじゃありません!
市場は『ド・ラ・ノワール事務所が現実逃避を始めた』と勘違いして、夜間取引の株価がさらに垂直落下しています!
あと、地下ラボのマルヴェイCISOからも『広報の無能ども、回線を空けろ』って地獄みたいな声で内線がっ……!』
広報のプロとしての敗北、主君の暴挙、同僚からの怒り。
ジルベールは一度深く目を閉じ、そして静かに、覚悟を決めたように目を開いた。
「……わかった」
ジルベールはモニターから目をそらし、震える右手を宙に掲げた。
「会社の鐘たる広報部のみんな。よく聞きなさい。
九時から始まるのは『対話』ではない、一方的な『虐殺』だ。相手は激怒した大口投資家と、CEOの顔面に狂ったメディアの群れ。普通に受話器を取れば、君たちの精神はすぐに崩壊するだろう。
……そこで広報部長として命じる」
ジルベールは腕を振り下ろす。
「九時になった瞬間、全員、自宅のIP電話のシステムを回線切断しなさい!
経由回線を『ただいま大変混み合っております』の自動音声ガイダンスに切り替えるんだ。
苦情はすべて、公式アカウントの一二日の決算発表の告知リプ欄に集約させる!
ネットのクソリプなら、グリッチくんが喜んで朝ごはんに食い尽くしてくれるからな!」
いまどこかのネットワーク上で、ニヤニヤと笑っているであろう電子妖精の顔を思い出しながら、ジルベールはモニターごしに部下たちを見つめた。
「幸い、本社に直接乗り込んでくる不届き者はこの大嵐が全員シャットアウトしてくれるだろう。
……君たちはそのまま自宅待機、実務は一切停止だ。珈琲でも淹れて、ぬくぬくと嵐が去るのを待っていなさい」
『部長ォーーー!』
ジルベールは踵を返し、廊下に躍り出る。部下たちの叫びがスピーカーを越えて背中を殴ってくるが、歩みは止めなかった。
魔導昇降機の『地下一階』のボタンを、親指が壊れるほどの勢いで連打した。
「まずはマルヴェイ様だ……」
埒が明かない。システムの権限を持つあの偏屈な天才セキュリティの足を引っ張ってでも、あの写真を今すぐ消させなければ。そうしなければ、会社は九時を待たずに社会的に即死する。
生乾きのタイを歪ませた広報部長の、孤独で泥臭い全力疾走が、ここに幕を開けた。




