『親愛の非線形回帰(リ・アセスメント)』①
第1部:初期化の暗黙知
二月十日 五時
目を開けると、そこは深い暗闇と、見覚えのある天井だった。
(……重い)
特注した寝台は完璧な遮音性とスプリングで無音を保っている。軋む音は一切しない。しかし、だからこそ肌に伝わる質量がダイレクトすぎて、レオンは息を呑んだ。
レオンの背中に、隙間なく密着している、もの。そこまで考えて、レオンはヴァルプスの存在を思い出す。
背後から完全に羽交い締めにされる形で固定され、レオンよりも少し低い、冷ややかな体温が衣服越しに伝わってくる。
布地の擦れる音さえ躊躇われるほどの密着度だ。この静かな寝台では、自分が呼吸を乱しただけで、背後の悪魔に気づかれてしまう。
レオンはそっと息を止め、体幹の筋肉だけで慎重に右腕を動かした。
ヴァルプスの白い腕のロックをすり抜け、枕元に置いてあった情報端末を顔の前へと引き寄せる。
画面が淡い光を放ち、レオンの鋭い双眸を照らした。
通知欄には、蒼銀連邦全土に発令された河川の氾濫警報。
端末がブブ、と短く震える。その微かなバイブレーションの振動は、密着したヴァルプスの胸へと確実に伝わったはずだった。
レオンは親指一本で素早く通知をスワイプして消す。
彼が本当に恐れている『決壊』は、外の洪水でも、豪雨による決算遅延のトラブルでもなかった。通知の下、緊急ログに表示された1通の暗号化されたメール。それを見つめるレオンの首筋に、ヴァルプスの低く、規則正しい寝息が吹きかかる。
(……起きるなよ、ヴァルプス)
レオンは端末の輝度を最小に落とし、背後の悪魔から画面が見えないよう、わずかに角度を傾けてメールを開いた。
画面に映し出されたのは、前日に自分が送ったメールへの、ちょうど二十四時間後の返信だった。
『Re: 【共有】DPA初期検証素材(外部マル秘)
送信者:オスカル・ド・ラ・ノワール』
オスカルからのメッセージ。
スクロールせずとも、大画面の端末は明瞭に、その前半部を映し出していた。
『──資料は確認した。
──まず結論から言えば、私はこの映像を「失敗作」とは評価しない。
──君は説明文の中で、「組織論」「市場耐性」……』
(……いまは、見たくない)
レオンはぎゅっと目を閉じて、逃げるように端末の電源ボタンを押し込んだ。光は消え、部屋は再びどんよりとした暗闇に戻る。息を詰めたまま、端末をそっと枕元へ戻した。
安堵したのも束の間、レオンの腰にヴァルプスの腕が潜り込んでくる。ゆるく抱きしめなおされ、レオンは一度宙に視線を投げる。
背後から自分を閉じ込めているヴァルプスの存在。この男は、本当に眠っているのだろうか。
──否。存在しているのか。
(……確かめたい)
レオンは覚悟を決め、ヴァルプスの腕の檻の中で、慎重に身体の向きを変え始めた。
シーツの音を立てないよう、熱を帯びた身体をずるりと滑らせる。ヴァルプスの引き締まった腕の下をくぐり抜けるようにして、仰向けになり、そしてゆっくりと背後の悪魔の方へと寝返りを打った。
視界が反転し、目の前にヴァルプスの端正な顔が迫る。完全に、正面から向かい合う形になった。
お互いの胸板が触れ合い、レオンの微熱を孕んだ吐息が、ヴァルプスの前髪を微かに揺らす。ヴァルプスの規則正しい寝息が聞こえるが、その切れ長の目は固く閉じられたままだ。
レオンは自身の青い瞳にその白い顔を映し、視線だけでヴァルプスが気がつくくらいの熱量で見つめ続ける。
やがて、レオンは息を潜めながら、自由になった左手を伸ばした。
まずは、その白い頬に指先を触れさせてみる。ひんやりとしていた。まるで磨き上げられた大理石に触れているようだ。自分の指先が熱を持っているせいで、その冷たさがひどく心地よく、同時に酷く恐ろしい。ヴァルプスはぴくりとも動かず、深い眠りの中にいるように見える。
レオンはさらに大胆に、指先を白髪の奥へと滑り込ませた。髪の隙間から突き出た、悪魔の滑らかな角の根元に触れる。硬く、そしてやはり冷ややかだった。人間の頭蓋骨よりもずっと強固な、人外の象徴。その輪郭をなぞるようにそっと指を這わせる。
レオンは実感を確かめるように、ヴァルプスの柔らかい髪に指を絡ませながら、何度もヴァルプスの頭を撫でた。
「……ん……」
突如、ヴァルプスの喉の奥から低い声が漏れた。
レオンはビクリと指先を凍りつかせ、息を止める。ヴァルプスは目を閉じている。完全に寝ぼけた挙動のまま、彼はレオンの指が触れていた自分の頭を、むしろレオンの掌に擦り付けるようにして低く、甘えるような吐息を漏らした。そして、レオンの腰の後ろに回っていた腕を引き寄せた。
引き戻される、圧倒的な質量。正面からヴァルプスの冷たい胸板に抱きすくめられ、レオンの身体は、完全に彼の懐へと収まってしまう。
(──動けなく、なった)
レオンは視界いっぱいに広がるシャツの布目を見つめながら、深い息を吐く。
諦めたように目を閉じて、レオンは背中を丸め、ヴァルプスの胸元に額をあてた。そのまま、彼のシャツを握りしめる。
名を呼びかけて開いた唇は、そっと閉じられた。
照り返しのような、自分自身の熱い吐息を受けとめながら、レオンは再び意識を闇に沈めた。
数分後。ヴァルプスの睫毛が、微かに震えた。瞼が開き、赤い瞳が暗闇をただ、見つめる。
ヴァルプスは寝たふりのまま、盗み見たメールの内容と、先ほどのレオンの反応を静かに照合していた。
画面から拾い上げられたのは、断片的な情報でしかない。
叔父。
映像。
生存。
再評価。
どの単語も意味は理解できる。ビジネスの、あるいは身内の対話として成立している。だが、そこから導かれるべき結論だけが、この暗闇の中で異様に曖昧だった。
(レオンは、オスカルという血縁者と確執がある)
それだけは確実だった。しかしその「何か」が、オスカルの自分たちへの敵意なのか、それともレオンが独りで抱え込んだ一族問題なのか、あるいはもっと別の──何か。
ヴァルプスは、自身の胸元へ額を押し付けて再び眠りに落ちたレオンの黒髪を見下ろした。
端末を握っていた時のレオンは、呼吸が浅かった。
指先にも力が入っていた。
叔父からのメールを開き、そして途中で閉じた。
それだけ見れば、何かに追い詰められているようにも見える。
それなのに──
レオンは身を翻し、確かめるように自分の角へ触れた。
髪の奥に指を滑り込ませ、愛撫するように触れた。
最後には、拒むどころか自ら進んで自分の腕の中へ、その体温の奥へと戻ってきた。
ヴァルプスはゆっくりと目を閉じる。
導出できない答えは存在する。
どれほど優れた頭脳であれ、他者の精神を完璧に模写することなどできはしない。そんなものはただの傲慢な『誤読』だ。
確かなことは、思考の領域にはない。
だが、肌を通じて理解できる事実も、ひとつだけあった。
レオンは今、何かに酷く怯えている。そして、その張り詰めた恐怖の最中で、他でもない自分を探し、その存在に触れて安堵したのだ。
(……ならば今は、それでいい)
ヴァルプスは、レオンの細い背を強固に縛り付けていた腕の力を、ほんの僅かだけ緩めた。
檻で閉じ込めるのではなく、ただの安息の壁となれるように。
胸元で微熱を注いでくるレオンの呼吸は、少しずつ、深くなっていた。
外では豪雨が、容赦なく窓硝子を叩き続けている。連邦を泥に変えていく低気圧の嵐。
だが、この寝台の中だけは、酷く静かだった。
夜明けまでは、まだ少しだけ時間がある。
ヴァルプスは腕の中の微熱をそっと引き受け、再び静かに、深い寝息を装い始めた。




