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1魔貨の聖騎士 ― 価値ゼロCEOと悪魔の強制執行監査契約  作者: 暮夜すと
【シーズン2:本決算発表会編】Q1

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『復旧の熱力学(フェイル・バック)』①

 第1部:事後ログの精密監査ポストモルテム・アナリティクス


 二月九日 二十三時


 薄暗い小個室。魔導遮音結界の低い駆動音だけが、静かに空気を震わせている。

 重厚なマホガニーの執務机の上で、小さなランプが琥珀色の光を投げかけていた。

 壁に敷き詰められた本棚の古い革装丁の匂いと、微かなインクの香りが部屋に満ちている。

 外の世界から完全に切り離されたこの贅沢な空間は、密談のための繭のようだった。


 ヴァルプスは革張りのソファに深く腰掛け、長い足を組んで、対面に座るカイをじっと見据えた。

 彼が優雅に指先を動かすたび、ランプの光がその冷たい双眸を怪しくきらめかせる。


「……では、二月九日十六時以降のログを」


 カイは直立したまま答える。


「はい。対象はCISOによる装備調整後、研究室内へ滞在。情緒負荷の増大を確認しています」


「具体的には」


「怒りの発露です」


 短い沈黙。ヴァルプスの赤い瞳が、わずかに細められる。


「……続けて」


「CISOが、監視値が静かすぎる、停止直前のシステムに近い、と発言。対象は強く反応しました」


「強く、とは」


 カイは一瞬だけ、記憶の底の恐怖をなぞるように視線を落とした。


「声量上昇は軽微。ただし――」


 カイは一瞬だけ言葉を選ぶ。


「……掴みました」


「誰を」


「CISO――マルヴェイ様の手首を」


 ヴァルプスの指先が、机上で一度止まる。しかし表情は変わらない。


「その際、周囲への攻撃兆候は」


「ありません。ですが、室内全体が即時警戒状態へ移行しました。自分も制圧介入の準備へ入っています」


「対象は気づいていた?」


「はい。自分へ待機サインを」


「……そうですか」


「その後、異常兆候を確認しました。犬歯の伸長。瞳孔収縮。魔力波形の乱れ。

 怒りとの同期を、CISOが確認しています」


 そこで初めて、ヴァルプスが視線を上げる。


「……犬歯」


「はい」


「見間違いではなく?」


「至近距離で確認済です」


 沈黙。


「対象はその後、ログ送信を試行しています」


「……誰へ」


「ヴァルプス様――あなたです」


 ヴァルプスの思考が、止まる。


「内容は」


自分カイを抱き寄せた状態で、ログを送りたい。撮ってくれと」


 数秒、無音。

 ヴァルプスは静かに目を伏せる。


「……送信は」


「未遂です。CISOが停止しました」


「理由は」


「その状態の写真を送ったら、ヴァルプス様がラボへ戻ってくると」


 ここで初めて、ヴァルプスが小さく息を吐く。笑ったのか、諦めたのか、カイには判断できない。そのあと、ヴァルプスが低く聞く。


「……対象は、その時。正常な判断状態に見えましたか」


 行動そのものじゃない。ヴァルプスが見ているのは、彼の『判断能力』だった。カイはほんの数秒、迷うように視線を泳がせ、それから意を決したように答えた。


「業務指示そのものは正常でした」


「ですが?」


「……少し、止まりたくなさそうでした」


 室内を震わせる結界の駆動音が、妙に大きく響く。


「……その後、対象は会議室へ残留」


「状態は」


「市場対応能力に問題なし。指示系統も正常です」


「情緒面は」


 カイ、一瞬黙る。


「……不安定化が継続していたかと」


「根拠を」


「CISOへの反応が過敏でした。加えて――」


 カイの報告が、また止まる。

 ヴァルプスが僅かに指の先を動かした。


「続けてください」


「……自分へ接触行動が増加しています」


 数秒、静寂が満ちた。


「……接触?」


「はい。距離保持が甘い状態が見られました」


「具体的には」


「……抱き寄せ行為。

 手部接触。

 食事への同行要請などです」


「拒否は」


「困難でした」


「強制?」


「……いえ」


「強制?」


「いえ!」


 二人の間に、最も重い沈黙が落ちる。

 カイはゆっくりと口を開いた。


「……なお、対象は終始、自分の判断能力そのものは維持していました。ですが」


 ヴァルプスが静かに聞く。


「ですが?」


「……ひとりでいるべき状態には、見えませんでした」


 カイの声のトーンが、わずかに沈む。


「……続けて」


「その後、対象は食堂へ移動」


「状態は」


「……不安定です」


「具体的に」


「周囲の視線や恐慌状態への反応が希薄。一方で、管理官不在による行動補助欠損が見られました」


 ヴァルプスの、机上を泳いでいた視線がぴたりと止まる。


「補助欠損?」


「ネクタイ操作です。

 ……対象は、通常監理官が行う動作を、自力で再現しようとしていました」


 完璧な防音を誇る小個室が、一瞬にして完全な真空へと変わったかのような錯覚。

 ヴァルプスは何も言わない。ただ、続きを待っていた。


「……食堂内にて、取引所総裁秘書室から極秘召集が到着」


「対象の反応は」


「即時切替です」


「情緒変動は」


「……安定しました」


 ヴァルプスは微かに眉根を寄せる。


「なお、ディナーはお預けだと発言しています」


「……誰に」


「自分へです」


「……そうですか」


(……レオンは誰かと正常な時間を過ごしたかった。

 でも、CEOに戻らざるをえなかった)


 ヴァルプスはレオンの思考を推理しかけたところで、カイの体幹が揺らぐ。


「……ヴァルプス様」


「……何でしょう」


「……個人的な所感ですが。

 対象は、レオン様は。護衛対象というより――」


 カイは、言葉探すように視線を揺らめかせる。


「……帰投先を探している人間に見えました」


 ヴァルプスは指先を見つめ、数秒後に口を開く。


「⋯⋯報告を、続けて」


「……取引所総裁との交渉終了後、対象の緊張状態が急激に解除されました。その直後、二区広場の飲食店ホログラムへ強い注意固定を確認」


 カイは最初は完全に業務用語を並べ、その場を誤魔化そうと試みた。だが、ヴァルプスは揺るがない。


「具体的に」


 短く冷淡な催促に、カイはついに観念して視線を落とした。


「……寿司店です」


「寿司?」


「はい。対象は車外への接近を試行。監視ドローンおよび経済記者の存在を考慮し、ベータチームによる現地調達へ移行しました」


 ヴァルプスは一回、黙った。

 決して怒ってはいない。だが、薄暗い個室を支配する沈黙が、妙に、酷く長い。カイの背中に嫌な汗が流れる。

 ヴァルプスを怒らせたかと、カイの心臓の鼓動が速まる。


 ヴァルプスはここで初めて、自身の感情を完全にコントロールするため、ゆっくりと視線を机上へと落とした。

 赤い瞳の奥の光を隠すように、長い睫毛が影を落とす。

 数秒の空白の後、ヴァルプスは本当に知りたかった核心を、低く、静かに問いかけた。


「……レオンは、寿司を食べたのか」


「……はい。よく召し上がっていました」

 

「……そうか。食べられたのか」


 カイはハッと口を開ける。ヴァルプスが確認したいのは、レオンの身勝手な行動の顛末ではない。

 情緒負荷で臨界寸前まで暴走しかけていた男が、タイすら結べなくなっていたあの心が――交渉を終え、食事を受け付けられる状態まで無事に戻れたのか。見ているのは、そこだった。

 それならば、とカイは顎を引く。


「その後、レオン様は執務事務所へ帰宅。

 十五分の仮眠後、入浴。その後は就寝されました。現在の生体バイタルは安定に移行しています」


 ヴァルプスはいつの間にかきつく絞っていた目元を緩めた。


「⋯⋯わかりました。

 私が不在の際、レオンがどの程度まで幼化するかの追加ログとして保存しておこう」


 ヴァルプスは、端末に白い指を滑らせる。事務的な動作。そのヴァルプスの状態変化に小さく息を漏らし、カイの報告のトーンが落ちた。


「……はい」


 部屋の中に、柔らかな、少しだけ息のしやすい間が空いた。

 カイは報告任務はほぼ遂行したと判断した。

 だからこそ、カイは判断を統一しないまま、口を開いた。


「……あと一点。

 CISOとのやりとりの際。レオン様が自己の帰属性について、やや不安定な発言を」


「内容を」


 短い。逃がさない。ヴァルプスの赤い瞳が、隠された真実を抉り出すようにカイを射抜く。

 カイは沈黙した。言わなくても良かったのではないかと、後悔に似た感情が脳内を支配する。


「……内容を」


 黙ったままのカイに向けて、ヴァルプスから微かな魔圧が届いた。

 カイは、鉄の万力で開けられたように、重い口を開かざるをえなかった。


「……レオン様は、『誰の帳簿にも乗りたくない』と」


「……」

 

 ヴァルプスは、しばらく何も返さなかった。

 寿司の時よりも、遥かに深い、底知れぬ沈黙が小個室を支配する。

 単なる疲労の泣き言ではない。それは、レオンの根本思想――その魂の拒絶に触れる言葉だった。


 ヴァルプスには、その言葉の意味が正確に、胸に痛いほど理解できてしまった。

 世界を動かす「契約」と「管理」の中心に立ちながら、なお。管理官である自分を通して、レオンは世界そのものを拒絶している。


(報告するべきではなかったか……?)


 カイの喉が、ひりつくように乾く。知らず後手で拳を握りしめた。

 肌を刺すような沈黙が、痛い。カイは浅い息を吐く。ヴァルプスの動作を見逃さぬよう、視線が定まらない。


 やがて、ヴァルプスは荒れ狂う内面の感情を完全に押し殺すような、低い声を出した。


「……報告、ご苦労だった。……よく止めた」


 自分が不在の間、その限界を必死に繋ぎ止めてくれた部下への、確かな評価を伝える。

 赤い瞳を再びカイへと向け、ヴァルプスは静かに告げる。


「……ログは、すべて私が預かる。

 ……戻っていい」


 ヴァルプスが言葉を紡ぐたび、その薄い唇から漏れる吐息が白い霧となり、琥珀色のランプの光の中でさらさらと細かな氷晶に変わって落ちていく。 

 ヴァルプスの指先が触れていた机上からは、まるで生き物のように白い霜の結晶が這い回り、波紋のように広がって木目を覆い尽くしていった。


「失礼します」


 カイは直立不動のまま敬礼し、小個室を後にした。


 ひとり椅子に座ったまま、ヴァルプスは自身の指先から冷酷に侵食していった、白く霜の降りた机をじっと見つめていた。




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