『復旧の熱力学(フェイル・バック)』②
第2部:例外処理の再計算
カイが開けた扉が静かに閉まり、個室には再び魔導遮音結界の低い駆動音だけが残された。
ヴァルプスは動かない。彼の指先からマホガニーの机へと伝った冷気は、今や美しいシダの葉のような霜の結晶となって、琥珀色のランプの光を鈍く跳ね返している。
『誰の帳簿にも乗りたくない』
レオンのその言葉が、凍りついた空気の底で、今もヴァルプスの鼓膜をジリジリと焼き焦がしていた。
「……もっと、情報を」
ポツリと溢れた言葉とともに、ヴァルプスは薄い唇から白く凍る息を吐き出し、コートのポケットから私用の通信端末を取り出した。画面をタップする指先には、管理官としての容赦のない冷徹さが戻っている。
コール音は二回と鳴らなかった。一度繋がったかと思った途端に、切れた。ヴァルプスは不審げに端末画面を見下ろす。
数秒後、端末が短く震えた。
◆
【CISO補足ログ / 23:13】
・CEOの市場対応能力および意思決定能力は維持。
・対外交渉時の認知切替も正常範囲内。
・暴力衝動の外部拡散なし。ただし、情緒負荷蓄積に伴う以下症状を確認。
――管理官不在時の行動補助欠損
――接触行動増加
――単独状態への軽度拒否反応
――情緒安定対象の探索傾向
――CISOノードへの排熱(負荷分散)拒否
なお、対象は現在「業務遂行による自己維持」を優先している状態に見える。
停止後の反動増大が予測されるため、単独放置は推奨しない。
補足:現在、地下フロア全域においてフェイクニュース対策およびN-13ニルヴァ型低気圧への緊急対応が同時発生し、処理負荷は上限域に到達。通信・解析系リソースはフェイク情報遮断処理に集中配備されており、SREチームは気象系異常対応と並行して緊急対応を継続中。
……現場は通常稼働に復帰の見込みなし。
……あと、寿司はちゃんと食べてたよ。
◆
「……」
ヴァルプスは文面を何度か読み直し、一度目を閉じた。カイからの報告と、マルヴェイのログ。そして、かつてレオンと交わした未送信ログの残滓を頭の中で照らし合わせながら、ヴァルプスは静かに深呼吸を繰り返す。
「……違う」
ヴァルプスは息を吐く。
「違う」
そう言って、しばらく動きを止めた。
視線の先に広がる霜の行方を追いかけ、白く美しい結晶が木目の端で途切れたところで、その赤い双眸を固定する。
「……レオンは、誰にも支配されたくないのであって、自分から渡したものまで否定したいわけじゃない」
ヴァルプスは、己が導き出した答えを確信するように、霜の降りた机にそっと指を這わせた。
やがて端末をポケットへ戻し、ヴァルプスはゆっくりと腰を上げる。脱ぐことを忘れていたコートのシワを一度だけ丁寧に手のひらで伸ばし、ヴァルプスは凍りついた小部屋を後にした。
その足が向かうのは、もう、あの男が眠る寝室しか、なかった。
ヴァルプスの思考の奥で、レオンのログだけが、未だ熱を持って滞留していた。




